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歴史の陰に消えゆく者・3

「母さん!」
 崩れるように倒れた女の元へ走り寄り、少年は叫んだ。
 年の頃は十歳過ぎ。継ぎ接ぎだらけの服の袖や裾から痩せ細った手足が露出し、旅向きの服装とは思えない。砂埃に煤けた顔からは、少年特有の覇気さえも失せていた。
 少年と同様の恰好をした、こちらは四十前後の女性が額に玉の汗を浮かべ、俯せになったまま大きく咳き込んでいる。
 赤黒い液体が地面に滴り落ちた。
 かなり粘りのあるそれは、地面が吸い込むのを持て余す間に次々と注ぎ足されていった。
 もう無理だよ。少年は心底そう思った。このままじゃ母さん、死んじゃうよ……。
 母の肩口に縋り、彼は悲観に暮れた。
 不意に背後から気配を感じた。  だが今の少年には振り向く気力もない。彼の意識はただ母の容態にのみ向けられていた。
 その母の咳が急に止まった。
 驚く少年の肩に、そっと手が添えられる。
 温かく、大きな手だった。包み込むような優しい微笑みを浮かべ、その男は少年を見つめていた。

 数日の後、男に連れられた母子が行き着いたのは、ノミオル湖畔にあるキャンプだった。ノミオル湖とは、「傭兵の街」レイドの近くを流れる川の上流に位置している。
 男の名はクレイオ・アーザン。チャ・ザの神官戦士である。
 彼と、その仲間である五人の男の目的は古代遺跡の発見だと少年は教えられた。
 故あって故郷を追われる身となり、行くあてもなくただ足の赴くままに旅を続けているというこの母子を、それでは……とアーザンはキャンプへ連れてきたのだった。
 幸いなことに彼の仲間には腕のいいヒーラーがいて、その男ならば母親の病をどうにかできるのでは、というのもまた理由の一つであった。
 しかし、ヒーラーから返ってきた答えは期待に反していた。
 症状から、何の病気かはわかった。しかし薬の調合はできない。それがヒーラーの答えだった。
 持ち合わせの薬草では足りない、というのもあった。しかし、必要な薬草の二つは稀少なもので、もし仮に店頭へ出されたとしても法外な値段のために庶民では手が出せない、というのが実際のところだった。
 発作を止める程度の能力しかアーザンは持ち合わせていない。どうすることも、できなかった。

 五年の月日が流れた。
 時間の波に揉まれ、少年は逞しく成長した。
 発掘の傍ら、シーフに盗賊技の手ほどきを受け、また魔術師からは魔法のイロハを学ぶ。そんなことが数年間続くうち、少年の腕は師匠達に匹敵するほどとなっていた。
 アーザン達は少年の予想していた以上に腕の立つ連中だった。それに、それを鼻にかけることもなくとても気さくだ。
 少年の母親の病気を治すことが叶わないとわかり、彼女の意識も完全になくなりこのままでは確実に死ぬ、という段になったその時、精霊使いは一つの案を提示した。  母親を氷柱の中に閉じこめて、半死半生の状態で維持する。
 少年の承諾の元にこれは実行に移された。
 この魔法――<アイス・コフィン>――が相当の腕を要することを、少年はあとで知った。精霊使いを二十人捕まえたとしても、全員使えない可能性の方が確実に高いほどである。
 そんな精霊使いと同等の腕を持つ魔術師やシーフが舌を巻くほど、少年の腕は上達していたのだった。
 その能力たるや、とても常人の及ぶところではない。もっとも、当人はこのことを自覚していないようだったが。
 彼もその時以降、発掘に参加するようになった。
 そして二年。湖畔から湖底に向けて掘り進まれた洞窟は、遂に目的地へ到達した。
 しかし、喜び勇んで遺跡へと駆け込む彼らに悲劇が待ち受けていようとは、いったい誰が想像できただろうか……。

 並の三倍はあるティグ邸の壁が、轟音とともに粉砕された。
 立ちこめる粉塵に咳き込みながらも、あるものは得物を手に身構え、またあるものは後ろに引いて事の張本人の到来を待つ。
 大方の予想通り、全身を黒装束で覆った彼がほどなく姿を現した。
 黒覆面……バーシャ。
「く……」
 ヴァトルダーの口から声が漏れた。
「何が目的かは、言わずともわかっていよう。
 大人しく『神具』を渡すというのならばよし。
 また、抵抗するのならばそれもまたよし。
 いずれを選ぶか、その選択権は貴様たちのものだ。好きにするがよい」
 彼は口元に笑みすら浮かべ、視線をティグに向けると再度口を開いた。
「いや……貴様の、かな?」
「……こちらの事情も多少はわかっておいでなのですかね……」
 その視線を真っ向から受け、ティグがボソッと呟く。
「しかしそれならば、こちらがどういう態度をとるかもわかっているはずですが?
 確かに、あなた方にとってこの『神具』は命以上に大切なものかも知れませんが、私にとっても私なりの価値はあるわけで……。よって、これをお譲りするわけにはまいりませんね」
「やはりそうか……。残念だ」
 黒覆面が視線を下に落とした。
 一同の間に、緊張が張りつめる。
 来るか?!
 ヴァトルダーがそう思った次の瞬間。
 鋭い視線を投げ、黒覆面は動いた。

 刃と刃が触れ合い、柄に重い衝撃が伝わる。
 ティグを狙って動いた黒覆面の、その一撃を受け止めたのは、片腕の動かぬヴァトルダーだった。
「……またお前か……」
 侮蔑を含んだ黒覆面の言葉に、しかし言い返すだけの余裕が今のヴァトルダーにはない。
 ただでさえ一度負けているのだ。気を抜けば、間違いなく命を落とす。
 肉体的な力はヴァトルダーの方が上のため、今の攻撃はどうにか受け止めることができた。しかし、かなり無理な体勢だったせいか、はたまた使い慣れた剣でないせいか、腕にかかった負担は大きかった。
 この分では、あるいは気を抜かなくとも……
「フィップ君っ!」
 叫び声が飛ぶ。振り向いたフィップは、その手に飛来したものを受け止めた。
 ティグが後生大事に腕に付けていた、赤い宝石の、腕輪。それが自分の手の中にある……。
 ティグと目が合う。彼は、目で外を指した。
 フィップはその意を察し、軽く頷くと黒覆面の造った大穴を通って外へ駆け出した。
「ちぃっ! しまった!」
 舌打ちすると、黒覆面は大きく飛び下がり、そこに居合わせる他の連中には目もくれずにフィップの後を追って走り出る。
「おいっ! 俺たちも追うぞ!」
 ローゼンの声に、かの黒覆面と辛うじて渡り合えるであろう数人が、頷いて後を追った。
 あとに残されたのは、足手まといになる者と、そしてオーナー殿……。

「こいつは、いったい……」
 通路の蔭から奥を盗み見て、戦士が思わず言葉を漏らす。
 今朝方、彼はようやくにしてノミオル湖近くの森まで辿り着いた。
 ティグから聞いた話に寄れば、すでにベイドル教徒の連中の本拠地は目と鼻の先のはず。そう判断した彼は、ワイバーンを連れていては目立つのが目に見えていると、森の奥にエキュを隠し、単身ノミオル湖に向かったのだった。
 ノミオル湖まであと少しというところで彼が出くわしたのは、なにやら大きな樽を抱えた者や調度品を積んだ荷車を引く者、併せて十数名からなる一団だった。
 木の陰に隠れてやり過ごし、不審に思ってそのあとを追ってみれば、彼らは森の外れに、人の目から隠すかのごとく造られた洞窟へ入っていく。
 これについて入り、結果ここに至った、というわけだ。
 入り口から歩いた距離と、外の地形とから察するに、ここはノミオル湖の真下になるようだ。
 いま、視界に入っているもの。それは、それこそオランのクレイン・ネットワークの一階フロアがまるまる収まってしまいそうなほど巨大な部屋だった。
 壁は、これまでの通路のように土ではなく、切りそろえられた石材。明らかに人工の建造物だ。
 ランタンによってうっすらと照らされたその部屋の中央には、竜の彫像が据えられていた。その周りには、先に布の付いた何本もの棒が、規則正しく並べられている。
「ここが奴らの総本山なのか? ……だが、それにしては人気がないような……」
 身を潜めて自問するように呟くラエンを後目に、ベイドル教徒は着々と作業を続けている。
「これはここら辺りででよろしいでしょうか?」
「ああ、そんなところだろう」
 下っ端と思われる者の問いかけに、上役らしき者が頷く。
「うむ。これで、あとは神具がくれば、万事うまくいく」
「神具があれば、いったいどうなるんで?」
 上役は曖昧に首を振った。
「よくは知らないが……。ただ、我らのこれまでの苦労が報われるであろうことは、疑いようもないだろうな」
 言いながら、外へ通じる道を往き……
 ラエンと対面を果たす。
「ぬぅっ! 貴様いったい!?」
 目が合った途端、見事な身のこなしで後ろへ飛び下がる。
「あちっ! しまった!」
 ラエンは即座にクルリと反転し、ベイドル教徒に背を向けて逃走を開始した。

 縦横無尽に張り巡らされた裏通りを遁走するフィップと、そして黒覆面。二人を追った他の連中は、彼らの速さの前にすでに脱落していた。
 ……もう、捲いたかな……?
 上がってきた息の中で、フィップは考えた。
 グラスランナーである上に、敏捷性を高める魔法の指輪まで填めてるんだ。今の僕の速度なら、人間はもちろん、いちばん俊足のグラスランナーだって追いつけないはずだけど……
 しかし、黒覆面が人間であるという根拠はどこにもない。
 さらに懸念すべきは古代語魔法である。彼は、能力を一時的に高める魔法があるということをダルスから聞いた覚えがあった。「一時的」であることがせめてもの救いだが、なかなか厄介なものだ。
 そうこう考えているうちに、彼はいつも通っている道へ出た。
 昨晩襲撃にあった、あの場所である。
 なんか、縁起悪い……
 その時、背筋を冷たい予感が襲った。
 反射的に左へ横転する。と、先ほどまでいたその空間を、尋常でない速さで何かが通り過ぎた。
 それは、立ち止まったフィップの前方でゆっくりと静止し、厳しい表情で彼を見つめる。
「あーっ、インチキっ!」
 <フライト>の呪文で飛来した黒覆面に非難の声を上げるフィップ。それを意にも介さず、彼は問答無用で呪文の詠唱に入った。
「やばっ!」
 フィップは咄嗟に背を向け、走り出す。
 だがこれは彼にあるまじき失敗だった。愚行と言っても言い過ぎではない。相手に背を向けてしまっては、いざという時に対処のしようがないからだ。
 澄み切った空の下、呪文の詠唱が高らかに響きわたる。勝利を確信した心中とは裏腹に、抑揚のない声で力は放たれた。
「<スリープ・クラウド>」
 フィップを取り巻く空気が、夢の世界へと誘うガスに変質する。抵抗力のないものがこれを吸えば、即刻眠りに落ちるだろう。
 ところでそのフィップは、精神的な抵抗力に少々自信を抱いていた。彼は――というより、これはグラスランナー全般に関してなのだが――精神抵抗力が並の人間より高いのである。
 だがその自信は、彼が息を吸った瞬間、無惨に打ち砕かれてしまった。
「こんなものにでも頼らなければ、貴様には勝てんさ……」
 安らかな寝息を立てるフィップの横に降り立った魔術師が、握っていた拳を開きながら呟く。
 その指の隙間からサラサラとこぼれたのは、カストゥール王国の遺産――魔晶石と呼ばれるものの砕けた姿だった。

「そちらはいかがですかー?」
「いやー、だめです。どこにも見当たりません」
 よく通る女の声に、ローゼンが答えた。
「ふう……ったくフィップよ、いったいどこへ逃げたんだ?」
 呼吸を整えながら、通りにローゼンが現れた。しばらくして、ダッシュも姿を見せる。
「あやつの足は、到底我々のかなうところではないからのう。まあ、こうなるのは目に見えておったわい」
 頷きつつ言うダッシュに、
「ああ。だけど、俺たちがこんなだということは、あの黒ずくめの奴も同じ状況にあるのは間違いないだろうよ」
 と、ローゼンも口を添える。
「いや……あながちそうとも言えん」
 二人の会話に割って入ったのは、精霊使いセダルだった。
「あの黒覆面の男は、確か古代語魔法にも精通しているのだろう? フィップが、黒覆面も行ったことのある方向へ逃げたとすれば、どうなるかな?」
「しかしのう。フィップを見失っておれば、いくら方向がわかったところで、目的地を知る、なんてことはできんじゃろうし……」
「あのぉ、あたし思うんですけど……」
 リーハの横にいたシルクが、小首を傾げて意見する。
「遠見の水晶球っていう魔法の道具があるでしょう?」
 ダルスとリーハが頷いた。
「うむ。自分の知っている場所を、離れた所からでも、見ることのできる水晶球……。それが何か?」
「ええ。それをあの人が持ってたら、フィップさんの居場所もわかっちゃうんじゃないでしょうか」
「それはないわよ、シルク。あれは、自分の知っている場所を一日に一回、一カ所だけ、それもたったの15分しか見られないの。動くものを捕らえ続けることはできないわ」
「はあ……」
「いや。その子の考えと同じことを、俺も今思っていた」
 指をもじもじさせて俯いたシルクに、セダルが助け船を出した。
「というと?」
「ああ。俺の知っている物で、それに似たような水晶球があるんだ。
 自分の知っている人間を見ることができるという代物なんだが、仮にそれ、もしくはそれに近い物を問題の男が持っていたとしよう。どうなるかな?」
 ローゼンとダッシュが口を開きかけたが、セダルはそれを手で制した。
「もちろん、そんなものは持っていないかもしれない。しかし他にも、フィップ君を探す方法はいくつかあるだろう。その全てを否定することはできまい?」
「……確かに」
「物事は常に最悪の事態を考えるべきだ。俺はそう思っている。悲観的な奴だ、と思ってくれても構わん。が……俺は、あとで泣きをみるのは趣味じゃあないんでね」
 セダルの言葉には、ある種の重みが感じられた。耐え難い沈黙が彼らを支配する。
「まあ、言えることがあるとすれば……
 今の俺たちにできることは、何一つない、ということだな。早い話が成り行き任せさ……」
 肩を竦め、彼は半ば自嘲的に口を閉ざした。

 陽が中天を過ぎて久しい。
 遠くの方で怒鳴りあう声を耳に、巨漢の戦士は額の汗を拭った。
 あ、危ねぇところだったぜ……
 偽らざる心境である。正直なところ、あそこまで肝を冷やしたのは数年ぶりのことだった。洞窟から飛び出した彼は無我夢中で森へ駆け込み、どうにか振り切って逃げ果すことができた。
「しかしあいつら、いったいあそこで何をしていたんだ?」
 低い声で自問する。
 妖しげな竜の彫像から察するに、あの場にいた連中がベイドル教徒であることはほぼ間違いない。あれは祭壇といったところだ。すると、奴らの本部は別になるな。どこだ……?
 その場所を突き止めれば、今後の展開も幾分有利になるだろう。それは疑う余地がないが、さっきので警戒を強めるだろうしな……。
 ここで一旦退いてティグの旦那へ報告に行くか、はたまたこのまま居座るか……そこが、問題だ……!
 彼はしばらく唸って考えた。
 そして結局、一日ほど時間をおいて少しでもほとぼりが冷めるのを待ってから、洞窟に現れた教徒を尾行し、本部を突き止めることにした。
 と……!
 木の陰からあたりの様子を盗み見ていたラエンは、危うく声を漏らすところだった。
 あれはフィップ?! なぜここに……。
 かなり離れたところに、黒装束の男が立っていた。その男の小脇に抱えられているのは、小柄な少年である。その容姿から、フィップであろうことは容易に類推できた。
 が、だからといって、今はどうすることもできない。黒覆面との純粋な一騎打ちならいざ知らず、人質がいては不利なことこの上ない。
 悪いな、フィップ。後で助け出してやるからよ……。
 ラエンは心の中で手を合わせると、黒覆面が去るのを待ってその場を後にした。

「この馬鹿者がっ!」
 黒覆面は殴られた頬を押さえ、静かにテザムを見上げた。
「仮にもこの切羽詰まった時期に、偽の神具を掴まされて戻ってくるとは、愚かさにも限度があるわっ! どう始末をつけるつもりだ、バーシャ!」
 どのように貶され詰られても、バーシャは口を閉ざしたまま冷ややかな視線を送るのみである。その反抗的な態度が、テザムの神経を逆撫でた。
「……まあよい」
 なおも何か言われると思っていたバーシャは少々拍子抜けしたが、顔には出さない。
 その彼に、テザムはこう命令した。
 捕らえてきたグラスランナーに例の薬を使え、と。
「……俺には、そのようなことは……」
 黙りを決め込んでいたバーシャがついに口を開いたが、彼の上役は取り合わなかった。
「やれ。これはわしの、そして猊下の御意志である」
 怒りに震える手を、今にも殴りかからんとする衝動を理性で抑えつけ、彼は上辺だけの一礼をするとくるりと振り返ってすぐさまその場を後にした。
 ふざけやがって! この俺に……あんな薬を使えというのか?! 精神を封じ、操り人形を作り出すあの薬を……。
 母さんさえ……母さんさえ奴の手から離れれば……。
 母のことを顧みずにテザムを斬り殺したとしても、あの母ならば許してくれそうな気がする。しかし、できない。今までにも何度か試みようとしたことがあった。しかしいつも、最後の一歩が踏み出せずに終わった。
 アーザンおじさん……猊下……。あの人さえ正気に戻れば……。
 あの――すべての歯車が狂う、あの前に……戻りたい……。
 彼は冷たい石の壁にもたれ掛かると、重いため息を漏らした。

   長い一日も、終わりを迎えようとしていた。
 ランプの薄暗い光が、テーブルを囲む一同の顔を照らし出す。
 彼らの中で上座に座った男、ティグが皆を見渡して話を始める。
 話はフィップの件から始まった。そして途中からは、意を決したティグが「昨日は騙して失礼した」と前置きして、ベイドル教なるものの方向へと移行された。

 事の起こりは今を遡ること十年前。
 ある冒険者の一団が古代遺跡の発掘へ向かい、見事目的を果たした。
 その遺跡とは、ごく少数しかいないながらも、絶大な竜の力を操る一人の男――いわゆる竜司祭――によって束ねられたベイドル教の地下神殿跡だった。竜司祭とは、「司祭」と肩書きにはあるものの、別に宗教と関わりのある存在ではない。
 この指導者は相当征服欲の強い男であったらしい。その欲望は、肉体の滅んだ後も精神を神殿に留めた。精神体となった彼は新たなる肉体を欲し、数百年の時を経て現れた来訪者によってそれは満たされた。
 彼は、訪れた冒険者のうち神官戦士の体を自分の器と定め、乗っ取った。冒険者は六人いたが、神間戦士を除いた五人中四人までが竜司祭に魅入られ、彼に隷属した。最後の一人は、忌まわしき亡霊の手から仲間を救おうとするも力及ばず、逃走の道をとったと聞く。
 以降着々と「教徒」は増え、最近になってついに竜司祭が本格的に活動を開始した。そして現在に至っている――。

 ここでティグは一旦言葉を切り、一同を見渡した。セダルが「……気に入らん」と呟いたが、他の者は押し黙ったままだった。ただ、不満の色だけはいずれの顔にもありありと浮かんでいる。
「もう一つ言っておかなければならないことがあるのですが、その前に一つ」
 彼は皆に、フィップが捕まると思えたか否かを訊ねたが、首を縦に振る者はなかった。それに満足したというわけでもないが、ティグは軽く頷くと話を進めた。
「私もそう思っていました。ですが、万が一ということもありました。まあ、実際その『一』になってしまったわけですが、それを見越して」
「腕輪をすり替えた……」
 セダルの呟きに、ティグは幾分戯けた調子で「ご明察の通り」と答えた。
「腕輪は、竜司祭がかつてその右腕としていたドラゴンの封印を解くための神具、いわば鍵。決してベイドル教の連中に渡すわけにはいかないのです」
「フィップは腕輪を守るための囮かよ。やりきれなんな……」
 ヴァトルダーが俯いたまま漏らす。
「俺は明日、フィップを助けにその神殿跡まで行こうと思うんだが」
 ローゼンの言葉にティグはしばらく目を伏せ、ゆっくりと視線を上げると渋々頷いた。
 リーハとセダル、そしてティグの息子セインは彼に同調し、自分たちも共にロマールへ行くと言い出す。
 人員を分散させるのはティグの思うところではなかったが、この家が戦場になるならば、家ごと吹っ飛ばす意思が相手にない限り、戦いは主として肉弾戦になる。彼自身も含めたルーン・マスター(魔法使い)はむしろ足手まといになってしまうのだ。だから、彼らのこともあえて止めはしなかった。
 残る者の中にはダッシュやシルクがいるから、治療に関しては問題ないだろう。しかし、使いものになりそうな戦士はダッシュ一人だ。ヴァトルダーが戦力外なのは、痛い。
 自分でまいた種とはいえ、大変なことになってきましたよ、これは……。
 冷たい視線を一身に受け、極寒の地プロミジーにいるような思いでティグは唇を噛みしめた。

「ちぃっ!」
 上段から繰り出されるグレート・ソードの猛撃を紙一重でかわし、黒覆面がラエンの懐へと迫り、傷をつけた。
 既にラエンの全身には無数の紅の線が刻み込まれている。
 ラエンが大きく飛び下がった。黒覆面もそれに合わせて一旦退き、体勢と呼吸を整える。
 陽が再び昇ってから、四時間ほどが過ぎた。
 彼らが戦い始めてからはまだ二分もたっていない。もっとも達人の域に近づくのに比例して戦闘時間は短くなるものだ。両者とも、これほどの時間を一人の人間と戦いあったのは何年振りのことか、見当もつかない。
「守らねばならぬものがあるから、戦う。ただそれだけだ」
 なぜ邪教団に手を貸すのかとの問いに、黒覆面はそう答えた。
 無言のまま二人は対峙し、黒覆面が剣の柄に手をかけたのが引き金となって決闘が始まった。
 今のところ黒覆面の側に分がある。実は昨晩、この辺り一帯には雨が降り、ラエンはろくに休息をとっていなかった。体も冷えている。どことなく動きが鈍く、剣技にいつもの冴えがないのはそのせいだった。
 当たれば……当たりさえすれば……。
 思惑外れに戦いが展開していることに、ラエンは歯ぎしりした。
 熊をも一刀に伏したこの剣、人間がただですむはずはない。だがそれも当たればの話だ。
 肩で息をするラエンに対し、黒覆面の呼吸は目立っては乱れていない。
 立ち並ぶ木々の葉の隙間から降り注ぐ木漏れ日の中、二人は睨み合った。
「だぁーっ!」
 焦燥感の中で自棄になったラエンが、間合いを一気に詰めて襲いかかった。
 ふ……
 黒覆面は右足を軸に身を四半回転させ、すんでのところでこれをかわす。そして何の躊躇いもなく、右手の剣を走らせた。
 ヒュッ、と刃が空気を割き、同時に逞しいラエンの左上腕へ深い溝をつける。
 ラエンは悲鳴も上げず、瞬時に体を黒覆面の方へ向けた。そしてその時の勢いに任せ、手の大剣を振るった。

 二人の始まる少し前、対決の場にほど近い森の中へ、四人の男女が現れた。
 彼らは、森に身を隠していたワイバーンと、周囲の様子とをざっと把握する。そしてしばらく会話を交わした後、四方へ散った。
 一方、オランのティグ邸には小柄な侵入者の姿があった。虚ろな瞳の彼は、脳裏に唯一焼き付いている言葉を呪文のように繰り返し呟きながら、己の使命を果たさんと駆け回っている。
 ノミオル湖底では、邪教徒達が時の来るのを待って瞑想を行っていた。
 野望の渦に翻弄される彼らを嘲笑う「猊下」こと竜司祭。その影に潜む竜は、覚醒の時を迎えようとしている。


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