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歴史の陰に消えゆく者・7

『クレインとやら。このように狭い場所では、お前も戦い辛かろう』
『……どういう意味です?』
 まさに戦いの火蓋が切られようとしていたその矢先、ベイドルは突拍子もないことを口にした。発言の真意を測りかねて、ティグが──それと、下位古代語を解する数名の者が──眉を顰める。
『なぁに、規模の大きな魔法を駆使するソーサラーにとって、この閉鎖空間は狭すぎる。そう言っているだけのことだ。
 それに私としても、これでは力の真価を発揮できない分面白くない。だから──』
 次の瞬間、神殿に居合わせた人間は立ちくらみに近い感覚を覚えた。それから、天より来る柔らかな光に目を細める。
『──こうしてやったのだ』
 一瞬遅れてティグ達の前に姿を現したベイドルは、両手を広げて自らの力を誇示した。
「こっ……これは?!」
「おい! こりゃ、外じゃねえか!!」
 突然変わった周りの光景に慌てふためく一同。
『なるほど……全員を一瞬で屋外に<テレポート>させたわけですか。とんでもない芸当をしてくれますね……』
『こんなもので驚いてもらっては困る。仮にも私はカストゥールの人間なのだからな』
『そうでした……』
 頭を掻くティグ。
 おや? しかしそれにしては変ですね……。
 カストゥール王国の魔術師は、かつて存在したという『魔力の塔』より魔力を供給されていた。額の水晶を介して、無限のマナを得ていたのだ。しかし『魔力の塔』崩壊で供給源を失った彼らは、魔力を手に入れる術を失ったのではなかったか?
 少なくとも、今のベイドルの額に水晶らしきものは見受けられない。まあ、元を正せばチャ・ザ神官アーザンの体をなのだから、それも当然のことだ。
『ベイドル……そろそろ始めましょうか』
『よかろう。だが、私一人ではあまりにも多勢に無勢、そちらも心苦しいだろう』
『いえいえ、決してそのようなことは……』
『そこでだ。この場に、ゲストを呼んでやろうではないか』
 慌てて手を振ったティグの言葉を無視して、ベイドルが話を進める。
「ティグさん、奴はなんて言ってるんだ?」
「僕が通訳しますよ」
 後ろから、未来のネットワーク総裁が声をかけた。父に余計な負担をかけたくないという『子心』である。
「どうやらベイドルは、ここに何かを召還するつもりのようです」
「召還……いったい、何を……」
 解答はすぐに現れた。凄まじい大音響の雄叫びが、彼らの耳を突く。
「どっ……ドラゴン〜? そんなのありかっ?!」
「大ありですよ。何せ『竜司祭』ってぐらいですから……」
 桁違いの『ゲスト』に動じる様子も見せず、ティグ。
「私の見たところレッサー種ですから、あなた方でも十分相手できますよ。というわけで、すいませんがそのドラゴンは頼みますね。私はベイドルの相手をしなければいけませんので……」
 気のせいか、ラエン達の耳に大勢の人間の鬨の声が聞こえた。まさかと思って振り返れば、洞窟の方から怒濤の如く押し寄せるベイドル教徒の姿がある。
「……あと、ついでにあれもね」
「他人事だと思って無茶言わないで下さいよ〜、父さんっ!」
「何の。これしきのことが片付けられなくて、クレイン・ネットワークの次期総裁が務まりますか」
 息子の訴えを平然と受け流すティグ。
「ま、お前がどう考えようと、向こうは容赦なくやってきますから。諦めて準備なさい」
 彼の言う通り、召還されたレッサー・ドラゴンもベイドル教徒も、着々と彼我の距離を縮めつつある。ここまで来ては腹を括らざるを得ない。
「ラエン、作戦はあるか?」
 ここに来て、皆の視線は戦闘のプロであるラエンに注がれた。その期待に満ちた眼差しを受け止め、彼は目を閉じて思慮した後、口を開く。
「ふん、作戦ね……この期に及んで、んなもんはない!
 ないが……とにかく死ぬ気で、なおかつ死なない程度に戦えっ! 一人も欠けることなく、ノミオル湖の朝日を見るんだ!!」
 ラエンにしては上出来の言葉だった。
 彼らは互いに目配せすると、誰からともなく動き出した。ある者はドラゴンと対峙するために。またある者は狂気に呑まれた集団を相手するために。
「おい、ファリス司祭」
 振り返ったローゼンは、そこに肩で息をする黒ずくめの男と、寝息を立てる小さな仲間の姿を見た。
「黒覆面……」
「安心しな。グラスランナーは生きてるぜ」
「そうか……ありがとう」
 礼を言うローゼンに、黒覆面──バーシャは頭を振る。
「礼を言うなら、あのベイドルと戦っている男に言うことだ。あの男が助けに入ってくれなければ、俺かこのグラスランナーか……恐らくは俺が、間違いなく命を落としていた」
「ティグさんが……」
 腕輪の件で騙していたことは、これで相殺かな……。ローゼンの頭をふとそんなことが過ぎった。
「悪いが、俺は休ませてもらう。さすがにこれ以上は、気力が持たんからな……」
「ああ、あとは俺たちに任せろ。ついでに、フィップも守ってくれると助かる」
「ふん……それぐらいの力は残っているさ」
 彼は口許を覆うマスクを取り払うと、不器用に微笑んでみせた。まったく、笑顔を見せるのは何年振りのことだろう。
「……死ぬなよ」
 黒覆面の言葉に軽く頷くと、それきり後ろを振り返らず、ローゼンは戦場にひた走った。

「喰らえっ! <ブリザード>っ!!」
 セイン・クレインの魔法を皮切りに、レッサー・ドラゴンへの攻撃が開始された。
 圧倒的な巨体を誇るドラゴンは、並の人間なら一撃で昏倒しかねない魔法に直撃しながら、なおも平然と立っている。
 ドラゴンは大きく身を反らせた後、唸り声と共に口から炎を吹き出した。その激しい火の海に呑まれ、セインとセダルは声を上げて転げ回る。ルーンマスターは総じて肉体的苦痛に強いとは言えない。
「くそっ……<バルキリー・ブレッシング>」
 二人の身につけていた鎧等の防具が、輝く光に包まれる。いわば光の鎧である。本来受けるはずのダメージを、ある程度まで肩代わりしてくれるのだ。
「すいません、セダルさん」
「無駄口を叩いている暇があったら、この化け物を何とかすることを考えろ」
「は……はい」
 あくまで冷静に、セダル。たった二人がかりでドラゴン──たとえレッサー種とはいえ──を相手にしようというのだ、生半可なやり方ではどうにもならない。
 幸いにして両者とも腕の立つルーンマスターだから、『生半可』ではない方法もないわけではない。例えば先ほどの<ブリザード>がそうだ。その点、剣一筋のラエンよりはいくらかマシな展開が期待できる。
「<ブリザード>!」
「<バルキリー・ジャベリン>っ!」
 ドラゴンを氷の嵐が包んだと同時に、光の槍が突き刺さる。
 苦しげな絶叫が響きわたり、再びセダル達の体が炎に包まれた。だが、今は彼らの体を光の鎧が守ってくれている。
「よし、いける! セイン、もう一度だ!」
「はいっ!!」
 クレイン・ネットワークの倉庫から持ち出した魔晶石を惜しげもなく使い(あとでティグの怒りが降りかかることも予想されるが、その時はその時だ)、最大限の力を以て魔法を解き放つ。
「いっけぇ〜っ!!」
 二人の叫びが、ドラゴンという名の魔獣に襲いかかった。

「なんて数だ……こりゃ、一人一人やってたらキリがないなぁ」
 目前まで迫った無数の人の群れを見て頭を掻くローゼン。
 いったいどこにこれだけの数の教徒が隠れていたのだろう? それにもまして厄介なのは、彼らがこれを『聖戦』と信じ、死をも厭わぬ勝負を挑んでくることだ……。
「いくら愚痴をこぼしたって、状況は変わらないわ。いきましょ」
 メイスを握りしめて動こうとしたリーハを、ローゼンは無言で後ろから抱き寄せた。
「え……ちょ、ちょっとこんな時に……」
 予期せぬ事態に顔を真っ赤に染め上げ、じたばたと藻掻く。『こっち方面』への耐性のないことが見るからにわかるリアクションである。
 必死に振り解こうと試みるリーハだったが、ファリス司祭の力は予想に反して強かった。素行からあまり目立つことはないが、彼も人並み以上の筋力は持ち合わせているのだ。
「あんまり動くと、怪我しますよ」
「動かない方が、怪我、しますぅ〜! ……きゃあきゃあ、もうそこまで〜!!」
 剣を振り翳して──ベイドル教団は、刃物の使用を特に戒めていないらしい──襲ってきた教徒を見て、絶叫するリーハ。
 しかしその刃が二人の元まで届くことはなかった。爆発音と同時に突如生じた何かに、その教徒も含めてローゼンの周囲10メートル以内にいた全ての人間──つまるところ教徒──が大きく吹き飛ばされたのだ。
「……<フォース・イクスプロージョン>……」
「正解〜」
 左手でリーハの体を支えながら右手で器用に髪を掻き上げる。
「あはは、下手にリーハさんを離しちゃうと、衝撃波に巻き込んじゃいますからねえ。
 ……で、何か勘違いしました?」
 ヴァトルダーのいない分を埋めてなお余りあるローゼンの発言に、リーハは彼の頬へ紅葉を刻みつけた。
「さ〜、ローゼン君っ! 責任取って、私をおんぶしなさいっ!」
「え……な、なんで俺が……それに責任って何……」
「こんな体勢じゃ、私が魔法使い辛いでしょ! さあ、ちゃきちゃきおんぶするっ!」
「はいはい……」
「『はい』は一回っ!」
「はい……」
 『キレた』リーハのペースに完全に呑まれてしまい、言われるがままに動くローゼン。二人の年齢差を考えれば、ごく普通の関係になったと言う話もある。
「さあ、ガンガンいきましょっ!」
「いやあ……いくら俺でも、魔力の限界ってものが……」
 リーハは胸元から何かを取り出すと、手を伸ばしてローゼンに握らせた。
「はい、これで大丈夫。しっかり働いてね〜☆」
「とほほ……」
 それでも、まんざらでもなさそうにファリスへ祈りを捧げる。
 ドウゥッ!!!
 重なるように二つの爆発音が生じる。まずリーハの、数瞬遅れてローゼンの生み出した衝撃波が、教徒達の全身を強かに打ち付けた。

 上空に戦闘の舞台を据えたティグとベイドルを見上げる人影があった。
「どれ……私もちょっかい出しにいきますか……」
 精神を集中して<フライト>を行使しようとした彼の前に、巨漢の戦士が立ちはだかる。
「ちょっと待ちな、クライドー。ティグさんの邪魔はさせんぞ」
「おや……誰かと思えば……」
 俯き加減に声を殺して笑う魔術師。
「てっきりあちらで戦っておられるのかと思ってましたよ。『ドラゴン・スレイヤー』の称号はお嫌いですか?」
「お前とそんなことを話し合う気などない。
 黙っておとなしく見ているというのなら、今回は手を出さずにおいてやる」
「敵に情けをかける……というのですか? 甘い甘い……。
 しかし私も舐められたものですねぇ。あなた如きに情けをかけられるとは」
「何だと……てめぇ、もう一度言いやがれ!!」
 ラエンの忍耐力では、ここまでが限界だった。怒りに燃えてゆっくり歩み来る戦士を、クライドー・クレインは鼻で嗤う。
「やっとその気になりましたか。でも所詮あなたはただの戦士風情、この私には……」
 鈍い音がして、魔術師の体は魔法なしに宙に舞った。そのまま体勢が変えられることなく、地面へ叩き付けられる。
「ふん、ただの魔術師風情がこの俺を倒そうなんざ、十年早いぜ。もっとも……十年後の機会は、やらねぇけどな」
 掌握を決めた右手の平を擦って嘯くと、ラエンは背負った荷物の中から細縄を取り出してクライドーの両腕を縛り始めた。
「まったく、油断してくれてて助かったぜ。魔術師に下手に手を出すと、こっちが命を落としかねんからなぁ。
 さあてティグさんよ、俺にできるのはここまでだ。本当なら手助けしたいところだったんだが……」
 満月の輝く夜空を寂しげに見上げる。
「飛べねぇもんな……俺……」

 上空に舞うベイドルの姿は、人間からかなりかけ離れたものに変貌を遂げていた。
 左右十本の指から伸びた鉤爪。背中に生えた翼。そして衣服の下には、全身を覆う鱗。彼の体は、半ばドラゴンのそれに転じている。
『どうだクレインよ、私とお前の力の差、少しはわかったかな?』
『ええ……よくわかりましたよ。身に染みてね……』
 答える彼の全身には大小無数の傷が走り、随所から出血していた。
『カストゥール人の古代語魔法だけでも堪えるのに、その上竜語魔法まであるなんて詐欺ですよ、まったく』
『ここまで持ちこたえただけでも大したものだ。まったく賞賛に値する』
『そりゃどうも……』
 今の彼には冗談で言い返す気力も残っていない。
 やはり、あれしか手段はないでしょうね……。
 朦朧としつつある意識の中で、ティグ・フィー・クレイン──46歳、男、クレイン・ネットワーク総裁、妻とは死別、子供は二人──は考えた。
 自己犠牲……私の主義とは180度反対の行為ですねぇ……。でも、やれるとすれば今、この時しかない。ベイドルが完全に力を取り戻していない、今しか!
 彼の心は固まった。右のポケットに忍ばせていた魔晶石──あえて売りに出さず、自分個人の金庫に終っていた秘蔵中の秘蔵──を握りしめ、時が来るのを待つ。
『ふん……少々魔力を使い過ぎたようだ。回復させんとな。そのためには……』
 やおら、ティグに背を向ける。
 今だっ!!
 ティグが一気にベイドルとの距離を詰め、『奥の手』を使おうとしたその時──
 シュンッ!
 その姿が、一瞬のうちにかき消えた。慌ててその行方を追った彼は、今まで目を向けていたその遙か向こうにベイドルの存在を確認した。
 ワイバーン・エキュの──直上!
「エキュ君〜っ!!」
 果たして、ティグの絶叫は届いたのだろうか。エキュはその羽ばたきを止め、やがて頭から湖に消えていった。
 だが、悲しみに暮れている場合ではない。ベイドルの全身が、湖──ちょうど神殿のあったあたり──からやってくる光を浴びて、再び深紅のオーラに包まれたのだ。
『力が……力が、蘇る……』
 もはや一刻の猶予もならなかった。全身の力を振り絞り、ティグはベイドルへ突進する。
『ふん……遂に万策尽きたと見える。愚かなり……』
 興味の失せた様子で、ベイドルが無造作に右手を突き出す。
 鉤爪の生えた手は向かってきた男の腹に突き刺さり、次の瞬間その体を貫いた。
 ぐふっ……
 ネットワーク総裁の口から、夥しい量の血が溢れる。
「父さんっ!!」
 その時、彼は息子の声を聞いたような気がした。ぎこちなく後ろを振り返ったその先に、セイン・クレインはいた。
 父の最期を看取る息子……悪くないシチュエーションですねぇ……
 もはや誰の耳にも聞こえることのない声で、彼は呟いた。それから両手で印を組み、人生最後の魔法を小声で囁き始める。
『きっ……貴様! まさか私を道連れに死ぬつもりかっ?!』
 放っておいても……どうせ死にますから……
『や、やめろ! 今の私に、その魔法に耐える力は──』
「セイン、見ておきなさい! 私の最期を! 父、ティグ・フィー・クレインの生き様をっ!!
 <ディスインテグレート>ぉっ!!!」
 二人の体は、月よりもなお眩い光に包まれ──
 ……一瞬の後、世界から消滅した。

「何が起こったんだ、いったい……」
 一カ所に集まって空を見上げていた彼らは、心中に沸き上がる不安をあくまで胸に留めたままに、すべてを知るであろうセイン・クレインが降りてくるのを待った。
「あれはきっと……いや、まさか……」
「何だ。はっきり言ってくれよ」
 ローゼンやセダルに促されても、黒覆面は首を振って何も話そうとしない。真実を知っている自分を、この時ばかりは呪った。
 やがてセインは地上に降り立つ。
「父は……」
 彼は顔中を涙でぐしゃぐしゃにして、一言一言噛みしめるように言った。父の最期を再確認するかのように──。
「父は、ベイドルを倒しました。古代語魔法の、<ディスインテグレート>を使って……。
 本来ディスインテグレートは、触った相手『だけ』を消滅させる魔法です。でも、あの場合は……」
 そこでセインは堪えきれずに声を上げて泣き出した。
「父さんはっ……普通に魔法をかけようとしても、ベイドルなら逃げてしまうと判断した! だからわざと自分の身を犠牲にして──!!」
 地面に蹲って嗚咽する彼に代わり、同じく魔術師である黒覆面が説明を引き継いだ。
「ベイドルは──言葉の通じていないお前達にはわからなかったかも知れないが、かなりの自信家だった。クレインはその隙につけ込んだのだと思う。また、竜司祭はドラゴンを崇めていることからもわかる通り、本質が残虐だ。自分が不用意に近づけば、体を串刺しにするという予感があったのだろう」
「そ、そんな……自分もろとも、相手を道連れだなんて……」
 地面に座り込んで泣き崩れるリーハ。
「黒覆……おっと、バーシャ。そのディス……何とかって魔法は、普通に触ってかければ問題なく相手だけを倒せるんだよな」
「当たり前だ。神聖魔法じゃあるまいし、古代語魔法に元々自己犠牲の魔法などありはしない。
 だが、あの状況で相手を倒すことだけを眼中に入れれば、あの方法がもっとも成功率が高かった。そういうことだろう」
 今となっては、ティグの本当の思惑を知る由もない。
「ま……前にも一度、こんなことがあったじゃないか! <リザレクション>をかければきっと生き返れるさ!」
「それが……できないんです」
 何とか沈んだ空気を持ち上げようとするローゼンだったが、顔を上げたセインにあっさり否定されてしまった。
「それができれば……僕だって父さんの、ティグ・フィー・クレインの息子です、泣いたりはしませんよ。
 ディスインテグレートは……目標を殺すんじゃありません。『消し去る』んです。文字通りに……」
「消すって……まさか……」
「そう、消えてしまうんですよ。肉体だけじゃなく、魂までも……つまり、存在そのものが!」
 今度こそ、誰も……何も言えなくなった。

「……何のつもりだ?」
 自分を束縛していた縄を断ち切った男に、クライドーは訝しげな視線を向けた。
「行けよ。今日のところは見逃してやる……」
「……お前にまで情けをかけられるとは思いませんでしたね」
「……父さんが、死んだ」
 陰になってよく見えないが、心持ちクライドーの表情が変わった。彼も長年叔父のことをつけ回してきたのだ、まったくの無感動であるはずがない。それが正か負かは別としてだ。
「……私がなぜベイドル教団に与していたか、一応話しておこうか。セイン君」
「……」
「我が父フォルが、かつてこの遺跡を発掘した冒険者の一人だったんだよ」
 セインは意外そうに従兄の顔を覗き込んだ。あるいはそこに、クレイン家とベイドル教団の接点があるのかもしれない。だが、彼の期待に沿った話は出てこなかった。
「残念ながら、収穫と呼べるものはほとんどありませんでしたよ。それでもこの教団に残っていたのは、ティグ叔父さんと戦うためでしたが……それも今となっては無意味なことです」
 クライドーは立ち上がり、フッと嗤った。月明かりに照らされたその顔の奥には、寂しさが漂っていた。
「……次に会う時には、まともな決着をつけよう。従兄弟同士、一対一でね……」
「ああ。ただし、いきなり<テレポート>してくるのだけはやめてもらいたいな……」
「さぁて、それは意向に添えるかどうかわからないね……」
 風に同化するかのように、その姿がスッとかき消えた。
「クライドーも……どこか変わった気がする……」
 いつの間にか、セインに接する時の言葉遣いが変わっていた。今回のベイドル事件で、クライドーの中でも何かが変わりつつあるのかもしれない。
 夜風に身を晒し、セイン・クレインは月を仰ぎ見る。
 僕は、今夜の出来事を一生涯忘れない。この煌々たる満月と共に──。

 東の空が白々と明けてくる。長い夜が明け、朝がやってきたのだ。
 しかし、清々しい朝の空気に触れてなお、彼らの心にかかった黒い靄は吹き払うことができなかった。
「『朝日を見よう』って言ったあの時、ティグさんはその場にいなかった……だからか? だからティグさん、一人で……」
「考えすぎですわ、ラエン」
 何もかもを悪い方へ考えてしまう、まさにどうしようもない泥沼に填り込んだラエンへ、救いの女神が手を差し伸べた。
「いくら思い悩んでも、あの人は帰ってこないんです。それをいつまでもウジウジ悩んでも、しょうがないでしょう?」
「リーハ、お前は……悲しくないのか?」
「もちろん悲しいわよ……」
 つまらないことを聞いたと、内心ラエンは後悔した。どうして自分にはこうデリカシーがないのだろうか、と情けない気持ちにすらなってくる。
「だけど、過ぎたことを考えたって何も始まらないでしょう? それよりは未来を見ないと……振り返るのは、いつだってできるんだから」
「振り返るのは……いつだって、か……」
 朝日を反射して光り輝く湖面を見ていたラエンは、その言葉で吹っ切れたように立ち上がった。
「り、リーハ……俺、お前に言いたいことがあるって言ったよな……」
「ええ……」
「俺、今なら言える。俺は──」
「ふんっ」
 ラエンは、状況を完全に把握するのに三秒かかった。
 誰かに蹴られたとわかるのに一秒。
 それがローゼンだということに一秒。
 そして、自分が今まさにノミオル湖に着水したということに一秒──。
「ちょっと……やり過ぎじゃないかしら?」
「い〜や、これぐらいでいいんですよっ。まったく、このスケベ親父はちょっと目を離すと何しでかすかわかったもんじゃないな」
「でも……」
 湖面に上がる泡の量が減りつつあるのを確認しながら、リーハが首を傾げる。
「ラエンは確か、重そうなプレートメイルを着ていたような……」
 ファリス神官の顔から瞬く間に血の気が引いていった。
「だっ、誰か手を貸してくれ〜! ラエンが死んじまう〜!!」
 この時期、誰もが『死』という言葉に敏感だった。普段は平然と無視するセダルまでが、ロープを手に駆けつけている。
「やれやれ……ラエン、いったい何をやっているんですか。相変わらず困った人ですねぇ……」
 その声に、ラエン引き上げ作業をしていた皆が一斉に後ろを振り返る。
 そこには、父譲りの飄々とした表情でセインが立っていた。
「……なぁんてね。いつかは父さんのように、僕がこういうことを言う日も来るんでしょうねぇ……って、ロープロープ!!」
 セダル達の手から抜けスルスルと水中に没していくロープに気付き、セインが大声で指さす。またしてもてんやわんやの大騒ぎとなった。

 ティグ・フィー・クレインの精神。たとえ存在そのものは消えたとしても、確かにそれは遺された。確実に、彼の信じた仲間達の中に刻み込まれている。


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