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少女失踪事件 後編

「地図の場所からすると、かなり近いはずなんだけどなぁ……」
 眼前に広がる平野にため息を漏らすヴァトルダーとその一行。彼らがオランを経ってから、早3日目の昼を迎えていた。
「ヴァトルダー、その地図、見方を間違えたりしてないだろうな」
 ローゼンが愛馬ルーザー号の上から手を伸ばし、念のために地図を引ったくって睨み付ける。日に透かしたりもしてみたが、どうやら方角自体は間違っていないようである。
「んぁ……」
 口の中で飴玉を転がしていたフィップが、やけに間延びした声で遙か前方を指さした。
「あれ、ひょっとして村じゃないかな〜?」
「え? ……おお、ホントだっ」
 嬉々としてヴァトルダーが頷き、その歩みを早める。
 何日も他人と接さずにいると、人が恋しくなるものなのである。ましてやこんな平野部を行く旅人などそうそういるはずもなく、実に3日振りの「人間」、心躍るものがあって当然なのだ。
 ただ、いくら見えているといっても、それは単に「視界内に収まっている」だけのことだ。実際そこへ行き着こうと思えば、これからなお数時間歩く必要があるだろう。そう考えれば憂鬱には違いないが、それでも目的が定まっただけ大きな進歩と言えなくもない。
「う〜ん……俺の目には見えないな。お前ら、よくあんな遠くのが見えるよなぁ」
 相変わらず馬の上から、苦笑混じりにローゼンがぼやく。実のところ彼の視力が特に劣っているというわけではなく、むしろフィップやヴァトルダーのそれが抜きんでているだけなのだが。
「あそこへ行けば、何かわかるかもしれないな。よし、急ごうぜ」
 ヴァトルダーの言葉に一同は頷き、先ほどまでよりは心持ち軽い足取りで行進を再開した。

 畑の中を人と牛が行き交い、耕している。井戸の側ではその村の主婦であろう女達が何人か寄り集まって、文字通り『井戸端会議』が展開されている。
 村はただ一言『長閑』という言葉で言い表してよいほど、穏やかな空気に包まれていた。
 そのような中へ完全武装の冒険者が入ってきて、目立たぬわけがない。ヴァトルダー一行は、たちまちのうちに好奇の視線を降り注がれることとなった。
「いやぁ、人に見つめられるのは慣れているけどなぁ……」
 ローゼンは髪をかき上げ、自信たっぷりの笑みを浮かべて地上に降りた。彼には一生『自意識過剰』という言葉の意味がわかるまい。
「どうするよ、ヴァトルダー。もらうもんだけもらって、さっさと出ていくか?」
「もらうもん……ま、まさかお前! ファリス信者のくせに金品略奪しようってのか?!」
「うだぁぁぁっ、んなわけあるかぁっ! 水だよ、水。それとできれば、新鮮な食糧!」
 ヴァトルダーのつまらない勘ぐりに、力一杯抗議するローゼン。
「じょ、冗談だって。あ〜、そうだなぁ……洞窟の場所は一応確認しておこう。地図もあまりあてにはならんからな」
 赤毛の戦士は村の中でも知識量が豊富と思われる老婆に歩み寄り、中腰になった。子供や老人と接するときに、威圧感を与えないよう視線を彼らの高さまで落とすのは基本である。ヴァトルダーの細やかな心遣いに、老婆から警戒心が解けていった。
「おい、婆さん。この地図の場所、教えてくれ。この村の近くだと思うんだが」
 老婆の顔が心持ち曇る。やはりこの男、口調が行為についていかなかったようである。
 ヴァトルダーから地図を受け取ると、老婆は向きを変えたりしてしばらくそれを眺めていた。と、不意にその目に驚きの色が浮かぶ。
「お、お前さん方! まさか、この鍾乳洞へ行きなさるおつもりか?!」
「え? ああ、そのつもりだけど。それが何か?」
「お……恐ろしい……」
 老婆は地図を落とすと、ガタガタと震え出した。村の人間が何事かと彼女の元に寄ってくる。
「村の伝説じゃ……」
 落ち着きを取り戻したところで、青ざめたまま老婆は言った。
「そ……その鍾乳洞には、パギャーがおるんじゃ!!」
 仲間達にサッと視線を走らせたヴァトルダーは、次の瞬間には立ち上がっていた。
「邪魔したな、婆さん」
「こ、こら待たんか! まだ話は終わっておらん」
「あいにく、ボケ老人の戯言に付き合ってる暇はないんだ。ソローの命がかかってるんでな」
「待てと言うに!」
 無視して立ち去ろうとしたヴァトルダーは、不意に足首を掴まれて派手にすっ転んだ。
「な、何しやがる、婆さん!」
「お前達、私の話を信じておらんな?」
「当然だ」
 あまりにも無体な返答に一瞬声をなくしたが、それでも老婆は執拗に訴え続ける。
「よいか! 何の理由があって鍾乳洞に行くのかはわからんが、決してパギャーに関わってはならん! 鍾乳洞の主パギャーの逆鱗に触れたとき、それはお前さん方の命の火が消えるときじゃ!!」
「わかりましたよ、お婆さん。そのパギャーには一切関わりません。お約束します」
 ヴァトルダーを押しのけ、ローゼンが優しげな笑顔で老婆に頷きかける。
「連れが無礼を働いて申し訳ありません。あとでしっかり言い聞かせておきますので、この場はどうかお許し下さい」
「司祭様……若い身でありながら、さすがに礼儀を心得ていらっしゃいますのう。ですが、供はもう少し選ばねばなりませんぞ」
 今にも噛み付かんばかりのヴァトルダーをエルフとグラスランナーが二人がかりで宥め賺して、村の外へと誘導していった。それを見てローゼンも老婆に会釈すると、颯爽とルーザー号に跨ってその後を追う。
「ローゼン……お前、よくも俺を悪人にしやがったな」
 洞窟への道すがら、ヴァトルダーが数年来の仲間を睨み上げる。
「ん〜? 何のことかな〜?」
 一方のファリス司祭は、涼しげな視線でヴァトルダーを一瞥すると、悠々と伸びをしてみせた。
「ま、そう怒るなよ。
 それにしても、パギャーねぇ……あのお婆さんが言ってたこと、案外ホントだったりして……」
 そう、ホントだったりするのである。

 その日の夕刻には、彼らは鍾乳洞の入り口に到達していた。
 洞窟の周辺には、何本かの木がまばらに立っている。洞窟にもっとも近いそれには二頭の馬が繋がれ、そのそばに馬車が置かれていた。
「犯人連中が使った馬車ぢゃろうなぁ……やはり」
 ダルスの言葉に頷き、一行はそれぞれの武器を手に取るとゆっくり鍾乳洞の中へ足を踏み入れた。ねっとりとした湿気が彼らの体にまとわりつく。ヴァトルダーの指輪に灯った<ライト>の光を受け、鍾乳洞の壁が輝いていた。壁という壁の表面が湿っている証拠である。
 『鍾乳洞』と銘打っている通り、その洞窟には人の手が加えられた様子はない。あくまで自然にできたもののようだ。
「どこで犯人が待ち伏せてるんだろう……胃に悪いな、こりゃ」
 いつ現れるともわからない敵に気を配るのは、これでなかなか神経をすり減らすものなのだ。
 と、奥から急に足音が聞こえてきた。その音源は、音を洞窟中に反響させながら近づいている。ヴァトルダー達は曲がり角で立ち止まると荷物を壁際に置き、身軽になったところで戦闘態勢を整えた。
 <ライト>の光の中へ、三人の男が向こうから飛び込んできた。その表情には動揺の色が伺えるが、ヴァトルダー達の姿を確認したからというわけではないらしい。そもそも<ライト>の光は洞窟の向こう側からも見えていたはずだから、誰かがそこにいることに気付かぬはずがない。
「な、何て事だ。もう来やがった!」
 一人が声を上げると、別の男がすかさず合いの手を打つ。
「そうだそうだ。やいてめぇら、期限は一週間以内だと書いてあったろうが! まだ三日もあるのに、なんでこんなに早く来やがった?!」
「なんでと言われてもなぁ……」
 理不尽な抗議に顔を引き吊らせてヴァトルダー。
「早いに越したことはないだろう。ソローの命だってかかっていることだし……」
 そこまで言ってから、はたと気付く。
「おう、そうだ! 貴様ら、ソローはどこだ? おとなしく返せば、命だけは助けてやろう」
「何を! てめぇ、誘拐した俺たちを逆に脅そうってのか?! 舐めやがって!!」
 腰の剣を抜いて先頭のヴァトルダーに飛びかかった男は、一瞬のうちにその命を散らせた。
「弱すぎる……いや、俺が強すぎるのか?」
「ひっ……」
 残る二人が小さく悲鳴を上げたが、出口はヴァトルダーの側にある。逃げようがないことを悟った彼らは、無謀にも強行突破の道を選んだ。
 そして地上に転がる人間が二名追加されることになる。
「ち、畜生……こんなはずじゃ……」
 パリン。
 一人が倒れた瞬間、その胸元付近で陶器のようなものの割れる音がした。
「なんだ? 今の音は」
「それより……」
 苦虫を噛み潰したような顔でローゼンがぼやく。
「お前、全員殺してどうするんだよ。ソローがどこでどうしているかも聞いてないんだぞ」
「うっ……しまった……」
「……ねぇ、一人生きてるよ」
 呻くヴァトルダーの足下で男達の懐をごそごそと漁っていたフィップが、目を瞬かせた。
「どうしよっか。トドメ刺しちゃってい〜い?」
「お前は……人の話を聞いてないのかっ?!」
 頭をぺしっと叩かれ、フィップが何事か呟きながらその男の応急手当を始める。
「もちろん今のうちにロープで縛っといた方がいいよね?」
「ああ。当然だな」

 ゆっくりと目を開けた男の視界に、自分を顔を覗き込む何人かの男達が映った。そのうちの一人、金髪の男が話しかけてきた。
「単刀直入に聞こう。ソローちゃんはどこにいる?」
 その一言で、男は自分の立場を完全に認識した。
「お、お前ら……俺の仲間はどうしやがった?」
「ああ、それね。それなら……」
 フィップがスッと身をどけ、今まで自分がいた方向を指さした。そこには二人の人間が俯せになって転がっている。
「こっ……殺しやがったのか?!」
「あのなぁ……お前、それが誘拐犯の言う台詞か?」
 怒りを通り越して呆れ果てた口調でヴァトルダーが言った。
「俺は手加減ができん性質でな……俺の剣を受けて、運良く生き残ったのがお前だけだったというわけだ。もしかしたら、お前があの中の一人だったかもしれんぞ」
 ヴァトルダーに指摘されて男は身震いした。もっとも「もしかしたら」と言うのであれば全員が生き残った可能性もあるわけだが、残念ながら男の思考はその遙か手前で停止している。
 男は自分の強運を感謝する一方で、現在の立場というものを再認識した。ここでつまらない意地を張っても、せっかく助かった命を無駄にするだけのことだ。そしてそれは、自分を取り巻いているこの男達には何ら意味のないことなのである。
「……わかった、お前達の言うとおりにする。だから、命だけは助けてくれっ!」
「よぉし、いい子だ」
 勝ち誇ったようにそう言って、ヴァトルダーは先ほどローゼンの口にした質問を再度ぶつけた。
「あの娘は、薬で眠らせてある。洞窟の一番奥にいる……はずだ」
「『はず』? それはどういう意味だ」
「それは……洞窟の奥へ行けばわかる」
 思い出したくもないといった様子で答えた男は何気なく自分の胸元に目を向けた。その途端、顔色がサッと青ざめる。
「どうした?」
「く、薬が……2万ガメルもしたのにっ……」
「うはははは、自業自得だ!」
 他人の不幸は自分の喜び、というわけでもないだろうが、赤毛の戦士は高らかに笑った。
「おい。それは、お前がさっき言っていた睡眠薬か?」
「いや、違う……」
「違うだと? では、何の薬だ。答えろ」
 一瞬しらを切ろうかとも思ったが、問い詰めてくるローゼンの視線に耐えかねて男は白状した。
「その、睡眠薬の……解毒剤だ」
「ぬ、ぬわにぃ〜?!」
 ヴァトルダーの絶叫が洞窟中に響きわたる。まったく喜怒哀楽の激しい男である。
「お、おい貴様! その解毒剤がないと、ソローはどうなるんだ?!」
「薬を譲ってもらった男に聞いた話だと、一週間で死ぬとか……」
「な・ん・だ・とぉ〜っ?!」
 ロープで身動きの取れない男を揺さぶってから、思い切り顔を近づける。
「お前! 責任を取れっ!!」
「で、できるわけねぇよ……だいたい、期限を一週間にしたのだってその薬の解毒可能時間があったからなんだっ! もし身代金が取れなかったら、おとなしくあの娘に解毒剤を与えて逃げるつもりだったんだよっ!!」
「どうでもいい仮定の話をするなぁっ!!」
 ごっ。
 力任せに頭を床に叩き付けられ、男は泡を吹いて気を失った。
「少しは加減しろっ!」
「す……すまん」
 ローゼンに詰め寄られ、ヴァトルダーは反射的に頭を下げた。
「ったくもう……フィップ、男を介抱してやってくれ。別に<キュアー・ウーンズ>をかけるほどじゃないだろう」
 先ほどは死線を彷徨っていただけにかけないわけにはいかなかったが、今度はその必要もないだろう。
 フィップに渇を入れられ、男は悪夢の現実世界へ戻ってきた。
「とにかく、まずはソローちゃんを回収することが先決だろうな。あとのことはそれから考えよう」
「……そうぢゃ。お主、その薬は誰から買い取ったのぢゃ?」
「……それは……」
 固く口止めされていたことだったが、ヴァトルダー達の前に抵抗は無駄と悟っている彼にとってその事実はは歯止めにならなかった。
「……クライドー。クライドー・クレイン。あの男はそう名乗った」
 ヴァトルダーの眉がピクンと跳ね上がった。意外と言えば意外な名前が出てきたものである。
「クライドー……あの野郎、まだ懲りてなかったか……」
「そいつが言ったんだ。お前らは巨大なパトロンを背後に持っている、狙い目はヴァトルダーという男の娘だ……とな」
「あ、あいつめ……」
 歯軋りしてみせたが、クライドー当人がこの場にいないのではどうしようもない。
「まあ……あの大馬鹿野郎のことはこの際置いとくとして、まずはソローを迎えに行ってやらんとな……」
 珍しく父親らしい顔つきで、ヴァトルダーはそう曰ったのだった。

「ここが洞窟の一番奥だってのはわかるんだが……」
 ジッと目を凝らして、周囲を見つめる。
 しかしいくら目を皿のようにしてみても、ソローの姿はどこにもなかった。あるのは、かなりの幅と奥行きを持つ湖と、食べかけの携帯食だけである。
「おい貴様、話が違うじゃないかっ!」
「そ、そんなことを言われても困る! …………やはり、あれか……?」
「『あれ』とはなんぢゃ?」
 男の言葉尻を捉えて、ダルスが耳元で囁く。尋常でなく、怖い。
「ひいぃぃぃ……。じ、実は、最初にここへ来た時……」
 彼は小声でその時の様子を語った。
 彼とその仲間を含めた三人は半日ほど前、ソローを担ぎこの場所へやってきた。
 彼女を湖の畔に下ろした彼らは持っていた携帯食を広げ、計画の再確認をしながら遅めの昼食を始めた。
 彼らの予定では、洞窟の入り口でヴァトルダー達が来るのを待ち受け、持ってきた10万ガメルと引き替えで解毒剤を渡し、彼らが洞窟の奥へソローを回収に行っている間に自分たちは馬車で逃走。計画は完璧のはずだった。
 ところが、そんな彼らの野望を打ち砕くモノが突如姿を現したのである。腰を抜かすほど驚いた三人は、取るものもとりあえず一目散に入り口へと遁走した。その途中でヴァトルダー達にばったり出くわしたのだ。
「恐ろしいモンスターだったぜ……」
 淡々とした口調の中に、その恐怖が見え隠れしている。
「めちゃくちゃな大きさで、首が何本もあってよ……それが、いきなり湖の中から飛び出してきやがったんだ。そりゃもう、この世のもんとは思えなかった……」
 言われて湖を見てみるが、生き物の生息していそうな気配はない。
 しばらく黙って湖を覗き込んでいたフィップがヴァトルダーの方に振り返って、にへらぁと笑って見せた。このグラスランナーがこの笑みを浮かべた時には、必ず何か良からぬ事を考えている。
「あのさぁヴァトルダー、こいつを餌にして、その魔物を誘き出してみようよ」
「お、そいつぁいい考えだな」
 無情にも同意するヴァトルダー。さすがにこれには、男も抗議の声を上げた。
「て、てめぇら人でなしかっ?! 人間を餌にしようなんざ……い、いや、できればやめて下さい……お願いします」
 さきほど命を落とした仲間の所持品だった財布をちらつかされ、急に気弱になる男。
「危なそうだったら引き上げてやるから、おとなしく行ってこ〜い!」
 言うが早いが、ヴァトルダーは男の襟首を掴み、湖に投げ込んだ。そしてロープの端を掴み、「引き」が来るのをじっと待つ。
「おっ、来た来た」
 それほど間をおかず訪れた「引き」に、ヴァトルダーは渾身の力を込めて引き上げた。水揚げされた(?)男の足には、何かに囓られた後があった。見事に失神している。
「やっぱり、何かいるみたいだな」
「だねぇ」
 顎に手を当てて考え込むヴァトルダーにフィップが相槌を打つ。
「なあフィップ。やはりここは、更なる調査が必要だよな」
「うん、僕もそう思──え゛っ?」
 ひょいと首根っこを掴まれて、ようやくヴァトルダーの思惑に気付いたフィップ。
「いやだぁぁぁぁ……」
 チャポン。
 フィップは頭から湖に消えていった。
「お……お前、鬼だな……」
 いつもながらの問答無用な行動に、頭を抱えるローゼン。
 とはいえやってしまったことはどうしようもないので、彼らは湖岸により、今か今かとフィップが上がってくるのを待つことにした。

 湖に潜ったフィップの目に映ったのは、畔から見ていた時よりも遙かに広い湖の姿だった。上で湖の端と思っていたのは、実際には天井から突き出た岩だったようだ。5メートルも潜ればその岩は途切れていて、その向こうにはさらに湖が続いている。彼はひと思いに岩を越え、向こう側へと泳いでいった。
 ふと彼は、何かの視線を感じた。しかし湖の中で、誰か別の人間がいるわけがない。
 泳ぎ進みながら、フィップは視界を動かして視線の主を探し──その主と、ばったりと目を合わせてしまった。
 無数の首を備える巨大なモンスター。彼の知識庫の中に、その特徴を備えたモンスターはいない。
 10ではきかない数の目に見据えられ、フィップは思わず息を吐き出してしまった。それから慌てて足を動かし、水面へ泳いでいく。モンスターはそのあとをゆっくりと追ってきた。
「ぷはぁっ!」
 湖面に顔を出したフィップの目に、もう一つの湖岸と、彼の──正確にはヴァトルダー達を含めた『彼ら』──の探していた少女の姿が映った。
 フィップは全力で湖岸まで泳ぎ着くと、ソローの頬を叩く。しかし彼女は身動き一つしない。気のせいか、呼吸すらしていないようにも見える。
「どうしよう……。あのモンスターが、すんなり通してくれるわけないし……」
 魔物は徐々にフィップとの距離を狭めつつある。
「あ、でも待てよ。水中にいるってことは……きっと地上には上がって来られないんだ。きっとそうだよ、うん」
 一人で納得して壁際によるフィップは、次の瞬間モンスターが上陸するのを見た。
「い、インチキだぁっ! ヴァトルダー、助けて〜っ!!」
 フィップの悲鳴が密閉空間に響きわたった。

「あれ……?」
 湖に目を凝らしていた三人が同時に顔を上げた。そのことで、彼らの抱いた不安が各自の心の中で確信へと変貌を遂げる。
「フィップがやばい!」
 慌てて飛び込もうとした戦士ヴァトルダーを、ローゼンが引き倒した。文句を言おうとしたヴァトルダーに、ローゼンは黙って自分の鎧を指し示す。
「沈むぞ」
 その一言で十分だった。
 ローゼンの鎧は「銀のプレートメイル」、ヴァトルダーのそれは「ミスリル銀のプレートメイル」である。銀の鎧の方は言うまでもなく沈むとして、ミスリル銀の方は重さ自体は問題ないにしても形状的に問題がある。とてもではないが泳ぐことなどできない。
「ダルス! 先に一人で助けに行ってくれ! 鎧を脱いだら、俺たちも後を追う!」
「うむ、わかった」
 ソフトレザーを着ている彼ならば、少なくとも溺れる心配はない(フィップを助けられるかどうかはまた別問題だが)。ダルスはローゼンの要請に応じ、ひと思いに湖の中へ飛び込んだ。
「さてと、ヴァトルダー……」
 ダルスが行ってしまった後で、かなり引き吊った笑みを浮かべるローゼン。
「どうやって脱ごうか、この鎧。どう頑張ったって、1分2分で脱げる代物じゃないぞ」
 それでも、脱ぐしかない。彼らは焦りと葛藤しつつ、鎧を外しにかかった。

「んきゃああっ!」
 その魔物の首は、正確には9本あった。それが入れ替わり立ち替わり、ひっきりなしにフィップに襲いかかってくる。
 彼の全身には、無数の傷が走っていた。いずれも魔物の鋭い歯によって付けられた傷である。その数は、今も着実に増えつつあった。フィップの足ですら完全にかわしきれないこの魔物の能力は、これまで彼が戦ってきたモンスターの中でも抜きんでていた。それこそ、いつか戦ったレッサー・ドラゴンにも匹敵するのではないか。
「ひょっひょっ……フィップ、苦戦しておるようぢゃのう」
 そこへ、ダルスが姿を表した。水面に現れた別の生物の姿に、魔物の注意が一瞬フィップから逸れる。
「ダルス! 僕がこいつの気を引き付けてる間に、ソローちゃんを!」
 言うが早いが、フィップは水中に身を踊らせた。その後を追って魔物も湖の中へ消えていく。その隙にダルスは岸へ上がり、ソローを背負うと彼もまた湖に潜った。
 さすがに水中では、フィップの方が明らかに分が悪い。瞬く間に彼の傷は増えていく。その中には命に関わりかねない傷も少なくなかった。
 ダルスは必死に水を掻き、ヴァトルダー達の待つ向こう岸を目指した。と、向こうからやってくる影がある。
 ヴァトルダーだった。
 ダルスは一目フィップの方を見て、すぐに泳ぎを再開した。二人の間ではそれだけで十分だった(ダルスとアイ・コンタクトをとったという、ヴァトルダーにとって甚だ不本意な事実はさておいて)。ダルスとてソローを抱えている以上、いつまでも水中に止まっているわけにはいかない。そこであとのことをヴァトルダーに託したのだ。
 しかし、ヴァトルダーが魔物と格闘できるかといえばそんなわけはない。グレートソードも鎧と同じ理由で水中では使用できないから、今の彼にある武器といえば彼自身の拳しかないのだ。半分運任せで切り抜けるしかない。
 魔物がフィップの体を頭で弾いた。小柄なグラスランナーの体はいともたやすく湖底へと突き進んでいく。
 今だ!
 湖底へ激突する寸前、赤毛の戦士がフィップを抱き留める。その姿は颯爽といってよかった。
 傷だらけのフィップを抱えた彼はすぐさま方向転換し、湖岸へと一目散に泳いでいった。その後を魔物が追いすがってくる。

「ヴァトルダーの奴、大丈夫か?」
 結局鎧を脱ぐのを断念したローゼンが、ソローを洞窟の壁に横たえながら尋ねる。その問いに、ダルスは荒い息で答える。
「わ……わしにも判断がつかん。あの化け物を向こうに回して、しかも事は水中戦ぢゃ。まああやつのことぢゃ、いざとなれば何とか自分の命だけは守りきるはずぢゃが……」
 と、水しぶきが上がってフィップの体が湖岸にトサッと投げ捨てられた。
「うわわわわっ!!」
 その後を追って、ヴァトルダーが必死の形相で岸に這い上がる。
 直後、さらに巨大な水しぶきとともに魔物が姿を現した。
「な、なんだぁ?!」
「これが問題のパギャーぢゃっ!!」
「くぉら待てぃっ!」
 ローゼンのツッコミを無視して、ダルスは「いや、あれはパギャーじゃ! 間違いない!」とただひたすら主張する。この魔物が何であるか知らなかったことを隠しているのは、どう贔屓目に見ても間違いない。
 後ろで繰り広げられる漫才を無視して、ヴァトルダーは転がるように地面を這うと自慢の魔法剣を手に取り、魔物に向き直り斬りつけた。
「はああっ!」
 渾身の一撃であったはずだが、それは魔物の薄皮一枚を傷つけたに過ぎなかった。
「ひ、ひえええ……全然聞いてねぇ」
「そこを退けぃ、ヴァトルダー!」
 ダルスの有無を言わさぬ口調に、ヴァトルダーはジリジリと魔物との間合いを開けていった。既にエルフは呪文の詠唱に入っている。
「<スリープ・クラウド>っ!」
 魔物が眠りへと誘うガスに包まれる。そして次の瞬間には、その巨体は轟音とともに岸に突っ伏していた。
「す……すげぇ……」
 ヴァトルダーの率直な感想に、ダルスは胸を反らしてふんぞり返っている。
「よ、よしっ……今の間にこの場を離れよう!」
 誰も異議のあろうはずはない。
 ヴァトルダーは自分の鎧を、ローゼンはソローを。そしてダルスはフィップを抱えると、静かにその場を後にしたのである。

「フィップ……お前はよくやったよ……」
 グラスランナーの頭を撫でてやりながら、ローゼンが呟く。
 一行が鍾乳洞を脱出して改めて調べたとき、既にフィップは事切れていた。
「まったく……ソローを助けられたのは、フィップのお陰だ。感謝しないとな……」
「ああ。……ところで、犯人の一人を魔物の前に置き去りにしてきたが、あれでよかったのか?」
「あいつはソローを誘拐した。更に俺たちをあんな危険な目に合わせ、しかもその結果フィップは死んでしまったんだ。同情の余地はない」
「それもそうだな……」
 ローゼンはフィップの肉体を静かに地面へ横たえると、精神を集中させた。
「<ブリザーベイション>」
 フィップの体が淡い光に包まれ、それが中に吸い込まれていった。
「なんだ、今の呪文は?」
「ブリザーベイション。物質を腐敗から守る呪文さ。オランへ戻って蘇生の呪文をかけるまで、フィップの体はこの状態のままキープできるって寸法だ」
「ほう……大したものなんだな。いやいや、感心した」
「俺にもう少し力があれば、この場で蘇生を試みることもできたんだけどな……ま、できないことをどうこう言っても始まらないからな」
 苦笑するローゼンの肩を、ヴァトルダーが無言でポンと叩いた。
「さてっと……問題はソローだ」
 ソローも呼吸はしていなかったが、体温が本来のまま保たれていることから、生命自体は失われていないことがわかる。おそらくは彼女に与えられた薬の作用なのだろう。
「こいつは、うまくいくかどうかわからんが……」
 舌なめずりをしてソローの側により、両の手を彼女に翳してローゼン。
「やるだけやってみよう」
 彼は持てる全ての力でファリスに加護を求めた。
「何とかなってくれよ……<キュアー・ポイズン>!」
 ヴァトルダーは娘の体を軽く揺すってみた。すると彼女の手がピクリと動き、瞼が徐々に開かれていったではないか。
 彼女の体内を回っていた『毒』が、ローゼンの魔法によって見事中和されたのだった。
「あれ……パパ?」
「よう、ソロー。お目覚めの気分はどうだ?」
 ヴァトルダー、ローゼン、ダルス。三人の笑顔に囲まれて目覚めたソローは、自分の置かれた状況が飲み込めないかのようにしばらくきょとんとしていた。

 朝を迎え、誘拐犯の馬車を掻っ払って快適に村への道を辿る一行の姿があった。
「そういえばダルス。あの魔物は、いったい何だったんだ?」
 ローゼンが、ヴァトルダーと二人して御者を務めるダルスに意地悪く問う。
「だから言ったぢゃろうが。あれはパギャーぢゃ」
「いや……だからそれはあのお婆さんの話で……」
「違う! 間違いなく、あれはパギャーぢゃ!」
 彼はごそごそと自分の荷物を漁ると、一冊の本を取りだした。何あろう『ヨガの奥義書』である。
「見よ! ここにちゃんと書いてあるぢゃろうが」
 本を手に取り、ダルスに指さされた箇所を見るローゼン。そこには首が9つある生物らしきものと、その下に『パギャー』という文字が、彼にも読める文字で書かれてあった。
「お前……これ、あとから書き足しただろう」
「な、何を言うかっ! それは、偉大なる先人がぢゃな……」
「先人が『共通語』なんかで書くかぁっ!!」
 ローゼンは力任せに『ヨガの奥義書』を投げ捨てた。それは大きく弧を描いた後、草むらの中に消えていった。
 ダルスの絶叫が、朝の平原を駆け抜ける。彼は馬車から飛び降りると、べそを書きながら草むらの中を探し回った。
 そんな彼を見捨てて行かなかっただけ、ローゼン達にはまだ彼への仲間意識があると考えていいだろう。

 村では、昨日の老婆が待ち受けていた。
「お前さん方……何もなかったかの?」
 妙にそわそわとした様子である。彼女はふとソローを目に留めて首を傾げた。
「はて……お嬢さん、昨日おったかのう?」
「いないさ。俺たちは、ソロー……この子を助けに鍾乳洞へ行っていたんだからな」
「なんと……」
 老婆は合点がいったという風に頷いていたが、すぐに次の質問を投げてきた。
「では、昨日おったあの子供はどうしたのじゃ?」
 今度は全員が言葉に詰まった。答えられない。答えれば、その後の展開は目に見えているのだから。
「司祭様、正直に仰りなされい。あのグラスランナーはどこへいったのじゃ?」
 『司祭』と呼ばれたことが手伝ったのか、はたまた単に言い逃れは無理と腹を決めたのか、ローゼンは馬車の後ろへ回って中を見せた。
「! こ、これは……」
 老婆はキッとなって一行を睨み付けると、
「それ見たことか! だからあの鍾乳洞には近づくなと申したんじゃ! パギャーの祟りじゃ!!」
 周りを取り巻いていた村人の間に動揺が広がった。
「ああ、恐ろしや! パギャーじゃ、パギャーの祟りじゃあ!!」
「おい、どうするよ……」
「どうする……と言われてもなぁ。このまま大人しく立ち去るのが、一番いいんじゃないか?」
「だよな……」
 ほう、と同時にため息をつくヴァトルダーとローゼン。彼らは建前で一礼してルーザー号と馬車に乗ると、後ろを振り返らず村を後にする。だがたとえ背を向けていようとも、老婆の絶叫はどこまでも聞こえてくるかに思えた。
「さっさと帰ってフィップを生き返らせて、この事件のことは早く忘れちまおうぜ」
「同感だ。夢に見そうだな、まったく……」
 事件は解決したのに、なぜか気が重い一同。
「ね〜パパ、パギャーってな〜に?」
「ソロー……いい子だから、早く忘れなさい……」


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