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歴史の陰に消えゆく者・1

 近年、麻薬中毒患者が急増している。
 このようなことが、患者の治療に当たっていた各神殿からの報告で明らかになった。
 かつて少々世間を賑わせた「クレイン・K事件」は、オラン及びその近郊の者にとっては、いまだ記憶に新しいことである。
 オランの各神殿、とくにマーファ神殿はこの事態を重く見て、警備隊の方に連絡。一方で、各神殿が独自の調査に乗り出したわけだったが……。
 いかんせん、そういったことはもともと神殿のすることではないため、成果は思うように上がらない。「盗賊ギルドや警備兵の力を借りよう」という案も出るには出たが、「神に仕える者のプライドにかけてそれは許さん!」との神殿内上層部のお言葉の前に敢えなく消滅した。
 その後一ヶ月かかった今でも、状況の進展はまったくない。ある意味では世間体を気にしての感じもある神殿の方はともかくとして、情報と呼べるものがまるでないため、警備の方もまるで埒があかない。
 溺れるものは藁をも縋る、とはよくいったものだ。路頭に迷った神殿と警備隊は、最後の手段とでもいうべき行動に走った。平たく言えば、この件に賞金をかけ、冒険者の店にその張り紙を散蒔いたのである。
 この「餌」に群がったもの、その数数名。
 言わずと知れた、ヴァトルダーのパーティだった。

 陽がやや傾いてきたその時刻には、既に酒場は人で溢れ返っていた。仕事を終えた者が大部分を占めているが、稀に一般例にそぐわない者もいる。
「お嬢さん、この私と一緒に飲みませんか?」
 例えば、こういった輩……本能そのままの行動をとる人間だ。この酒場に入り浸りの男で、なおかつ女性に対してのみこの不自然な丁寧語を使う。こうくれば、該当する者は限られてくる。
「どうです?」
 片手にグラスを持ち、もう一方の手はさり気なく横の女性の肩にのびている。彼の経験からすれば、このあと十中八九は平手打ちが飛んでくるのだが、今回はそうはならなかった。
 但し、そのかわり心臓にかかった負担は平手打ちの比ではない。
「……相変わらずですね……ヴァトルダーさん」
 それまで俯いて、カウンターに指を滑らせていたその女性が、ヴァトルダーの方に目を向けた。その顔を見てヴァトルダーは卒倒しそうなほどのショックを受けた。
 不意打ち、というやつである。何の心構えもないところに、いきなり見慣れた(というほど見慣れているわけでもないが)顔が視界に飛び込んできたのだ。
 驚きと、安堵と、そして数瞬遅れて恐怖が彼の心を駆け抜けた。
「き……君は……」
 重い口を開き、かすれるような声で言った。
「シ……ルク……さん……」
 彼女は微笑んだ。
 対照的に、ヴァトルダーの額にはじわりと汗が滲んでくる。
「ま……まずい……こんなところをリーハさんに見られたら……」
「どうなるの」
 今度こそ、ヴァトルダーの心は完全に恐怖に満たされた。彼の顔を見ていたシルクは、後に「まるでムンクの叫びのような表情でしたわ」と宣ったとか……。
 やおら後ろから聞こえた、冷め切った、妙に力の篭っている女性の声。シルクの姉的存在であり、またヴァトルダーの知る数少ない美人、つまりリーハその人である。
「リーハさん!」
 嬉しそうな顔のシルクを見て、予想が裏付けられたヴァトルダーの心は沈む一方だ。
「シルク、あっちのローゼン君たちのところに言ってなさい」
 不思議そうな顔をしながら、それでもシルクはこくっと頷いて席を立ち、指さされた先で飲んでいるローゼンとラエンのところへ向かった。ヴァトルダーの視線が、離れていくシルクに合わせて哀しげに動く。さながら最後の希望が去っていくといったような目をしている。
「リーハさん……ここは、一つ穏便に……」
 震える声での訴えは、しかしリーハには聞き入れられなかった。

「やぁ、シルクさん、来てたの?」
 こちらは一転して明るい雰囲気に包まれている。
「お邪魔します、ローゼンさん、それと……」
 金髪の神官戦士の横に座ったラエンを見て露骨に困った表情をしたシルクに、彼は自己紹介をした。この二人は、いまだ面と向かって話したことがなかった。
「ラエンだ。よろしくな」
「いえ、こちらこそ……」
 深々と礼をするシルクに、二人は席を勧めた。
「ところで、君がこういうところに来るなんて、何かあったのかい?」
 店の主人の冷ややかな視線をものともせず、平然とした顔で話をするローゼン。
「あ、はい。ローゼンさんのところにも回ってきてませんか?ほら、例の……」
「あぁ、あれね」
 足をぶらつかせながら頷く。
「うん、回ってきた。そう言えば、あの件に最初に足を突っ込んだのはマーファ神殿だったっけな」
 各神殿は現在、捜査網の拡大のために各の宗派の神官に呼びかけ、手の空いているものには協力を要請している。その話が昨日リーハのところにも回ってきた。さすがに自分一人では手に余ると思ったが、責任感の強い彼女は「一人がだめならみんなでやろう」的発想で、ヴァトルダーたちに助けを請うことを考え、不相応なこういう場所にまで来たのだった。
「そう、か……。でもな、ヴァトルダーに力を借りたいと思ってるんなら無駄だと思うぞ。あいつ、神殿より警備隊の方が太っ腹だって、この間言ってたからなぁ」
「そんな!?」
 いきなりシルクが机を叩いて立ち上がる。驚いた周りの客は何事かと音の方向へ一斉に振り向いた。
「お金の問題じゃないですよ! 困ってらっしゃる方がいたら助けるのが、人間じゃないですか! ねぇ、ローゼンさんっ!」
「お、お、落ち着いて、シルクさんっ! 他の人に迷惑だっ!」
 真剣な眼差しに圧倒されながらも、ローゼンは必死に宥めた。ラエンは何事もないかのように平然と酒を飲んでいるが、グラスの中の液体が波打っているところからして、彼もかなり動揺していると見える。
 面倒なことには関与しない。これが彼、ラエンの基本姿勢である。
「もう!こんなことだから、犯罪が……」
 なおも不平を漏らしながら、言いたいことを言ってひとまず気が済んだのか、彼女はそのまま席に腰を下ろした。周囲の客達もまた、席について各々の談話の中へ戻っていった。
 テーブルにおいてあった、おそらくはリーハの分だったであろうグラスに入ったワインを、シルクが一気に飲み干す。
「やれやれ、ヴァトルダーの奴はどんな気分で聞いてたんだろうな?」
 にやにやしながらカウンターの方へ目をやったラエンは、半殺しにされているヴァトルダーを視界に捉え、慌てて視線をこちらに戻した。
「俺は見てない……なにも見てないんだぞ……」
 自身に暗示をかけるラエンの脳裏には、半殺しのヴァトルダーよりも、その横にいたリーハの姿が焼き付いていた。

「ついてない……本当についてない……」
 顔にできたあざをさすりながらシルクの横で小さくなって座っているヴァトルダーの姿には、見るからに哀愁と絶望の念が溢れ出ている。リーハはラエンとローゼンの間に入って、ヴァトルダーの一挙手一投足をしっかりと観察し、片時も目を離さない。
「ははは、まぁ、自業自得ってやつだな。これに懲りて、当分は自粛するこった」
 からかうようなラエンのその口調が、これまたヴァトルダーには腹に据えかねる。
「ところでな、ヴァトルダー。シルクさんが、お前の助けをどうしても借りたいって言っているんだが……どうするね?」
 ローゼンに言われ、ヴァトルダーはシルクの方に目をやる。彼女は落ちつき無げに、グラスとヴァトルダーの顔とリーハの顔とをきょろきょろと交互に見ている。
「何だ? カコインの件か?」
 シルクがこくんと頷く。
「うーん……貸さないでもないんだが……やっぱりなぁ……」
 言いながら、ちらちらとシルクの顔を見やる。
「お前……ひょっとして、『手を貸す代わりに、一日つき合え』なんて甘い考えを抱いてないだろうな? だとしたら……」
 ローゼンがすっと視線を動かした方向に、ヴァトルダーも目をやり、そして凍り付いた。
「……コホン」
 リーハの咳払いが、彼の心に杭のように突き刺さる。
「ねぇ、ヴァトルダーさん……」
 シルクの訴えるような声を聞いたとき、彼はもしここでこの話を受けなければ、己の身の安全は保障されかねるということを本能的に察知した。
「……お……オーケーオーケー」
 手をはたはたと振る。かくして、彼の当座の身の安全は保証されたのである。
「ヴァトルダーも大変だな」
 グラスを揺らしながら、ラエンが哀れみを込めて言う。
「大方報酬は、ただでさえ少ない神殿の額の、さらにワリカンになるんだろ?」
「う゛……」
 そこまで考えていなかったヴァトルダーは、思わず絶句する。
「……い、いやいやラエンよ、俺の主義は『女にやさしく、男に厳しく』『自分にやさしく、他人に厳しく』『返事はハイと元気よく』だ。だから、その少ない報酬でも甘んじて受けてやろうじゃないか、うん」
 彼はひきつった笑みを浮かべて自分を納得させた。
「一つ目と二つ目のはわかるんだがな、一体なんだ、三つ目のそれは……?」
 水割りを飲み干しながら、ラエンが眉を潜める。
「ああ、三つ目な。いい言葉だろう。これはな、俺がまだ一人で旅をしていた頃に、ある村の長老から聞いたんだ。今でもあの時のことは鮮明に覚えてるぜ……。うーん、返事はハイと元気よく。すばらしい響きじゃないか、なぁ諸君! はっはっはっは……」
 一同は愛想笑いを浮かべるしかなかった……。

 やにわに外が騒がしくなった。
 外から、悲鳴と絶叫とが入り交じって聞こえてくる。
 突然扉を壊さんばかりの勢いで、一人の女性が店に飛び込んできた。
「ひっ……人殺しよっ!!」
 錯乱した女性の金切り声を聞き、店内は騒然となった。ヴァトルダー達は顔を見合わせ、携帯していた武器を手に取り、うろたえる客を押しのけて外に出た。
「!」
 シルクは外の惨景を見、思わず目を背けた。
 そこでは、少なく見積もっても十人の人が傷つき倒れていた。すでにその通りに他の人はいない。ただ一人、黒い覆面を着けた者が立っていた。抜き身の妖しく光る剣を握りしめている。背格好からして、おそらくは男であろう。
「リーハさん! 早く治療しないと!」
 先に治療を始めていたローゼンに促され、彼女も怪我人の元へ駆け寄る。
「リーハ達に任せておけば、この人たちも死ぬ心配はないだろうが……だが!」
 やおらキッと鋭い目つきになり、黒覆面を睨み付けるラエン。
「これをやったのはお前だな!?」
 その問いに、黒覆面は肩をひょいと上げ、軽く頷くことで答える。その嘲るような仕草がラエンに火を点けた。
 グレートソードを抜き放ち、ラエンは一気に黒覆面に向かって突進した。
 黒覆面の間近に戦士が迫る。彼は手の中の剣を構え、少し退きながら相手の攻撃を受けようとした。
 受けとめた瞬間、刃の折れる甲高い金属音が響きわたる。
 思わず黒覆面は目を見開いた。自分の手にしているそれは根本から先がなくなっており、もはやただの柄でしかない。残りの部分は大きく弧を描き、少し離れた地面に軽い音を立てて突き刺さった。
 ラエンが会心の笑みを浮かべる。このときの黒覆面の心境たるや、いかばかりのものであっただろうか。
 黒覆面は残された柄を投げ捨てると、大きく飛んで下がり、そのまま逃げ出した。ラエンもあえて追うことはしなかった。その身のこなしからして、向こうの方が足は速いことが明白だったからだ。もしも相手の油断がなかったならば、こちらがこのようにあっさり勝っていたかどうかも怪しいところである。
 ラエンはグレートソードを鞘に収めると、ローゼン達の方に向かって手を振る。ローゼンとリーハも笑みを浮かべてそれに応えた。
「この人達はもう大丈夫だ。しばらくすれば目も覚めるさ」
 見ると、怪我人達の傷は跡形もなく消え去り、ただ、ところどころ破れた衣服だけがその名残を残している。ラエンとヴァトルダーはあらためてローゼン達の力に驚嘆した。
「一体何だったんだ? あいつは……」
 訝しげな表情で黒覆面の去った方を眺める一同は、自分達の未来に何が待ち受けているかなど知る由もなかった。

 ローゼン、リーハ、シルクの三人は自分の宗派の神殿へ話を伺いに行き、一方のヴァトルダーはフィップ以下ローゼンを除くいつもの面子とともにバールスのところを訪れていた。すでに空を闇が覆いつつある。
「なんだ、お前らもこの件に首を突っ込んだのか?」
 煙草を吸いながら、バールスは机の上の資料を取った。
「ううん、ヴァトルダーが勝手に受けちゃったんだ。僕らは単なる『連れ』だよ」
 フィップがきょろきょろしながら答える。滅多に来ない場所だけに珍しいのだろう。
「ふふん、大方女にでもつられたな?」
 からかっているのは目に見えているが、完全に否定できないところがヴァトルダーの辛いところである。
「そ、そんなことはいい。それより、何かわかってるのか?」
 急かすヴァトルダーを、バールスは軽く窘めた。
「まぁ、そう焦るな。……でもな、お前たちはこの間のカコイン事件の時に関与していたんだろう? 今あるのは、せいぜいそのときの資料が関の山だと思うんだが……」
 パラパラと紙をめくっていた手が、あるところではたと止まった。
「ふ……む。こいつはまだ知らんだろうな」
 バールスはそう言って口の端を上げると、資料を一同の前に置いて説明を始めた。

「遅くなっちゃったねぇ」
 軽い足どりで(事実軽いのだが)歩くフィップに、ダッシュが髭の下で忍び笑いを漏らす。
「いやいや……それにしても、世の中とは、狭いものよのぅ」
「うんうん」
 にこにこしながらフィップも頷いた。
 大通りから、宿のあるいつもの細い通りにさしかかる。先ほど、殺人未遂事件があったといういわくつきの場所となった。
 ヴァトルダーは突然歩みを止めた。
「……止まれ」
 後ろの連中を制止し、眼前の暗闇を見据えて言った。
「隠れているのはわかっている。……さっさと出てこい!」
「ほう、この私の気配を察するとは、大したものだ」
 闇の中から、嘲りを含んだ声が聞こえてきた。
 冷たく、低い声。その声が、今日のように冷えた夜には不思議と合っている。
「悪いが、俺達はこんな夜中にまで事を構える気は毛頭ない。できればこのまま通してもらいたいものだが」
「それは無理だ……ヴァトルダー君」
 ヴァトルダーの後ろで、フィップ達が顔を見合わせる。ヴァトルダーは眉をピクッと動かしたが、動じてないかのように話を続けた。
「俺の名前を知っているのか……」
「答える義務はない」
 言い終わった途端、暗闇の中から殺気の固まりが飛び出してきた。
 ヴァトルダーは軽く溜息をつくと、グレートソードを抜いて構えた。
 次の瞬間、高らかな金属音が、張りつめた空気の中を響きわたる。
「ほう、この私の一撃を止めたか!」
 感心したような声とともに、続けて第二撃、三撃がヴァトルダーに襲いかかる。ヴァトルダーはそれを辛うじて受けとめた。
「ダッシュ……」
 フィップが話しかける。
「見てよ。ヴァトルダーが押されてる……」
「確かに、向こうには余裕が感じられるが、ヴァトルダーにはそれがない。あやつ、やりおるわい……」
 ヴァトルダーは本能的に相手の力を察知した。戦士としての腕は、ヴァトルダーを確実に越えている。ラエンとタメを張ることができるほどではないだろうか。
 黒覆面の攻撃は止まることなく執拗に続いた。今の攻撃が何度目かもわからなくなった頃、ヴァトルダーはふいにバランスを崩した。
「しまったっ!」
 甲高い金属音とともに、ヴァトルダーのグレートソードが宙に舞う。月の光を浴びて、刀身が冷たい光を投げかけた。
「死ねぇっ!」
 鎧を、そして肉を切り裂く鈍い音が、フィップ達の耳にも届いた。
 眼を見開くフィップと、助けに入ろうとするダッシュ。
 ヴァトルダーの瞳は、その覆面の下から覗いている、自分を見据える氷のような眼を捉えたのを最後に閉ざされた。


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