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歴史の陰に消えゆく者・4

「しまった!」
 この男が狼狽する様子というのは、その外見から抱く印象からは想像し難い。
 しかし現時点において、ティグ・フィー・クレインが精神の興奮状態に置かれていることは事実だった。
 彼自身が動くよりも早く、周りにいた「取り巻き」の幾人かは自分たちより遥かに小柄な、しかも俊敏な少年の後を追っている。ただし、被雇用者であるところのティグに比べて、冷静さという点にでは必ずしも上回っていなかった。
 大地母神マーファに仕える神官・シルクがティグの側へ歩み寄り、その左手首――その上方にはほんの今し方まで、彼にとって掛け替えのない腕輪が填められていた――を手に取った。血を吐き続ける手首の一筋へ視線を落とす少女に、ティグはことさらに穏やかな声をかけた。
「大丈夫ですよ、この程度の傷。心配することはありません」
「ですが……」
「むしろ、あの腕輪の方が気にかかります」
「……」
 返答に窮した様子でシルクは顔を上げ、それから思い出したように目を閉じ、自らの奉ずる神へ祈りを捧げた。
 祈りは通じ、<キュアー・ウーンズ>でティグの手首を横断していた傷――腕輪が無理矢理外されたときの「名残」――はほぼ癒えた。
「ありがとう」
 ティグの心からの労いに軽く頷いて、シルクは視線を、開け放たれた廊下側の扉へ転じる。
「私もこれからあとを追います。あなたはここに残りなさい。失礼ながら、彼が『敵』であるなら、あなたの力は到底及ばない」
 彼女が首を縦に振るのを確認してから、ティグは廊下に出た。それまで堪えていた焦燥の思いが顔に顕れたとしても、それは仕方のないことである。
 小走りに足を運ぶすがら、彼は半ば裂かれた左袖を眺めてつくづく思った。
 腕輪を奪ったときのあの力、すでに人間の域を逸していますよ。まして彼は非力で知られるグラスランナー、こりゃただ事じゃないですね……。
 それにしても……
「一歩間違えば、腕まで千切られていたところでした……」
 誰もいない廊下で冗談ともつかない言葉を呟く。
 次には何が待っているのかと漠然とした焦燥感が浮かんで、ティグは胸にたまった鬱積を空気にのせて吐き出した。

 一方、侵入者――言わずと知れたフィップ――をティグに先行して追った者の中で最先頭にいたのは、ローゼンの兄レンディだった。その彼ですら、彼我の距離は開く一方である。
 追っ手を遥か後方にして、ベイドル教団の先兵と化したグラスランナーはまさに空間を越えようとしていた。
 爵位をもたない人間が所有する『家』の規模としては、クレイン家は破格の巨大さを誇る(それとてクレイン・ネットワーク全体から見れば氷山の一角に過ぎないのだが)。
 この家の北館一階・廊下奥より東側三番目の部屋に、いわゆる「ワープ・ゲート」は存在している。一見すると等身大の鏡に過ぎないそれは、鏡面を虹色に輝かせて他との違いを優美に誇示していた。
 フィップの頭脳は今や、与えられた至上の命令に満たされている。
「ティグの手から、封竜の赤水晶を奪え。いかなる手段を用いても構わぬ」
 それは木霊のように反響し、彼の体機能を極限へと高め、維持させる。血を介して全身に行き渡った、悪夢の秘薬と手を携えながら……。
 既にしてフィップの精神は浸食されつくしており、現状が維持され続ければ、やがては肉体の方も後を追うように朽ち果てていく。限界以上の力を発揮させる、それは当然の代償であった。
「待ってくれ!」
 部屋に飛び込んだレンディは、息を切らせながら虚ろな目の少年に叫んだ。
 ゲートの枠に手をかけたまま、フィップは顔だけをこちらに向けた。
「待ってくれ、フィップ君……いったいどうしてしまったんだ! 君はなぜ、こんな……」
 レンディの言葉が終わるのを待たず、フィップは腰のダガーを引き抜く。
 銀の刃が、ゲートの光を受けて怪しく光った。
「!」
 金髪の青年が、声もなく絨毯の上に倒れ伏す。その胸元から絨毯へ、赤い染みが広がっていった。
 それから数瞬遅れて、赤毛の男が部屋へ足を踏み入れる。
 床に変わり果てたレンディの姿を見止めてさすがに声を失ったが、すぐさま気を取り直すと鏡の前の少年をキッと見据えた。
「フィップ、てめぇ! やりやがったな!!」
 右手の中のバスタードソードを震わせながら怒りを露わにするヴァトルダーを意にも介さず、フィップは再びゲートの方へ向き直った。
「待て! 誰がこのまま行かせてたまるかっ!」
「…………全てはベイドルのために…………」
「何をわけのわからないことを……」
 ヴァトルダーが足を踏み出そうとした途端、部屋は目映い光に満たされた。
「くそっ! だが、今すぐ追えば……」
「待てぃ、ヴァトルダー!」
 野太い男の声が、その動きを止める。
「待て、ヴァトルダー……お前一人が行ったところで、フィップをどうできるというのだ……。返り討ちに遭うか、せいぜい見失うのが関の山……」
「だからといって、このまま見過ごせというのか?!」
 やり場のない怒りは、渋面のドワーフへと向けられた。
「確かに俺一人が行っても、どうにもならないかもしれない! だが、それでもここでジッとしているよりは遙かにマシだっ!」
「少しは落ち着かんか」
 床に腰を下ろし、レンディの体を抱きかかえながらダッシュ。
「ふむ、どうやら心臓には至らなかったようだな……これならワシにでも治せるわい。<BR>
 いいか、冷静になって考えてみぃ。鏡の向こうには何がある?」
「……?」
 「思考」という行動は、現在のヴァトルダーの頭に水をかける結果になったようである。
「何って……ロマールだ」
「そう、ロマールがある。では、ロマールには誰がいる?」
 ダガーを胸から引き抜きつつ、ドワーフがさらに尋ねた。
「……そういうことか」
「……そういうことだ。ロマールには、ローゼンやリーハさんがおる。わざわざ儂らが出向くまでもなく、な」
 ようやく合点が言ったという表情で、剣を腰に収めたヴァトルダーはその場に座り込んだ。そして頭を掻きながら、ふと眉を顰める。
「……待てよ。だったら、最初からフィップのあとなんか追わなくてもよかったんじゃないのか?」
 そうだとすれば、わざわざ自分から危険に飛び込んでいったところのレンディはあまりにも浮かばれない。
「そんなことはない。フィップがどこへ逃げるか──などということ、あの時点ではわからなかったからな」
「まぁな。あ、ところで……」
 レンディの傷を癒やすダッシュに、ヴァトルダーは先ほどフィップが「ベイドル」という単語を口にしていたことを話題として提供した。

「これは……」
 突然森の中に興った金属音の出所を探しながら、セダルが呟く。
「十中八九、剣戟だな」
「ええ、おそらく……」
 周囲に視線を走らせていたローゼンが、ある方向を指した。
「あっちだ!」
 四人組は、全力に近い速度で走り出した。
 徐々に音量の増す中、体力に自身があるとは言い難いクレイン家の御曹司が愚痴をこぼす。
「……まったく……いきなり…………走らされる…なんて……聞い…て……ないですよ……」
「……イヤなら、ここで待っていてくれても一向に構わないが?」
 嫌みったらしくローゼンに言われて、セインは顔をしかめた。
 やがて、彼らの耳に人の声が飛び込んできた。
「ちょっと……この声って……」
「……ああ、ラエンのおっさんだ……」
 リーハの不安……もとい仮定を、セダルが裏付ける。
「いた、あそこだっ!」
 ようやく拓けた視界の向こうに、件の黒覆面と剣を交えるラエンの姿があった。折しも、左腕を傷つけられたところである。
「ラ……」
 口から出かかった呼びかけを、リーハは飲み込んでしまった。
 体を向けざま、ラエンは渾身の力を込めて、強烈な一撃を黒覆面の体を打ち込んだのである。黒覆面の口から、思わず呻き声が漏れる。
 まるで車輪かのようにその身体は地面を転がり、幾回転もしてから大木へと叩き付けられた。
「さっすが、大したもんだ。まだまだ現役だな」
「勝手に年寄り扱いするんじゃねえ……」
 額に浮かんだ汗を手の甲で乱暴に拭いながら、憮然としてラエンはセダルの言葉を受け流した。それからピクリとも動かなくなった黒覆面の側へ近づき、完全に気を失っていることを確認する。
「まったく、いいタイミングなのか悪いタイミングなのかわからんな」
「それこそ考え方次第だ。
 俺たちがもっと早くこの場に現れていればそこまで傷つくこともなかっただろうから、そういう意味ではタイミングが悪い。
 逆に、このまま俺たちが現れなければ、あんたはその傷ついた身体を癒やすこともできず、この黒覆面の処理も一人で行わなきゃならなかったわけで、そう考えればタイミングはいい。とこうなるわけだな」
「そこまでいちいち説明されんでもわかる。俺はヴァトルダーか」
 リーハに手当を受けながら、ますます憮然とした表情でラエンはぼやいた。この場にヴァトルダーがいれば、また一波乱あったところであろう。
「ま、セダルが役に立つかはともかく、リーハとローゼンには来てもらって助かる。お前らがいないと、傷を負ったときのことが不安でなぁ」
「俺だって役に立ちますよ、ラエンさん」
 戯けた調子で、セダルが肩を竦める。
 ラエンの治療が終わったところで、彼らは黒覆面の方へ歩み寄った。もちろん、事の真相を聞き出すためである。
 古代語魔法を使えないようロープで縛られた黒覆面に、ローゼンが癒やしの術をかける。ラエンも含めて5人の男女が見つめる中、黒装束の男はゆっくりと目を開いた。

「殺せ」
 開口一番がそれであった。
「おめおめと生き恥を晒す気はない。さっさと殺せ」
「生憎、そういうわけにはいかんのだ」
 ラエンは黒覆面の前で仁王立ちになり、相手を見下ろして言った。二人の鋭い眼光が、空中で火花を散らす。
「お前から聞きたいことは山とある。態度次第によっては、死ぬより辛い目に遭うかもしれんぞ。覚悟しろよ」
「こんな時にバールスさんがいてくれたら、一発なのに……」
 司祭とも思えない不謹慎な台詞をリーハに聞き咎められ、ローゼンは慌てて口を噤んだ。
「とにかく、おとなしく吐いた方が身のためだ」
「ふん、貴様らの都合など知ったことか」
「……しょうがねぇな、ここは一つ力づくで……」
「いけませんわ、ラエン」
 覆面を剥がされた『黒覆面』の側へ一歩踏み出したラエンに、ラーダ司祭の声が飛ぶ。
「どんな悪い方でも、拷問なんて許されるものじゃありませんわ」
「……リーハよ、常日頃のヴァトルダーに対する仕打ちを見る限り、言行不一致じゃねぇかと俺は思うんだが……」
 先日の酒場での光景が頭を過ぎり、苦笑いを浮かべるラエン。
「ついでながら、その思考法はラーダというよりマーファに近いな」
「宗派以前に、これは人間としてのあり方の問題です」
「俺としては、悪人に人権を認める必要なんてないと思うんだけどな。少なくとも殺人を犯すような輩に、人間としての価値は認めないね」
 ファリス司祭……の肩書きを持つローゼンが、辛辣な台詞を吐いた。
「おいセダル、お前さんの意見は……」
 ガッ!
 鈍い音に振り向いたラエンの視線の先に、右つま先を顔面に叩き込んだ精霊使いの姿があった。
 セダルは唇の端から血を滴らせる黒覆面の胸元に手をかけると、その眼前に顔を近づけ、碧の瞳で睨み付けた。
「俺は回りくどいことが嫌いなんだ。さっさと言うとおりにしろ」
 ラエン達には背を向けている格好になるため見えることはなかったが、その眼光は先ほどのラエンをも凌ぐほどの鋭利さが秘められている。少なくとも対峙した黒覆面の目にはそう映った。
 普段冷静な人間ほど、一旦キレてしまうと何をしでかすかわからないものである。
 沈黙が辺りを覆った。
 それから程なく、黒覆面の降伏によってそれは破られることとなる。

「神殿だ。神殿を発掘してしまったあの時から、全てが狂ってしまった」
 森の奥の一方向を見据え、黒覆面が淡々と語る。
「神殿……あれか。いったい、何を祀ったものなんだ? 例のベイドル教とかいうやつか?」
「ああ。もっとも、『ベイドル教』といっても名ばかりのものだ。実際は『猊下』という一個人を崇拝する非営利団体に過ぎない」
「……随分と冷めた奴だな。お前自身もその団体に属しているんだろうが」
 眉を顰めたラエンの台詞を、黒覆面は鼻で笑い飛ばした。
「所詮表面的なものだ。そもそも、自分の意志で属しているわけではない」
「どういう意味だ?」
 その一言に、無用の事まで喋ってしまったことにはたと気付く黒覆面。後悔の念からか彼は唇を噛みしめたが、隠すことに益なしと判断したのか、再び口を開いた。
「……母だ。俺の母親が、テザムの手に落ちている」
 それから、ラエン達が疑問を口にするより早く、
「テザムは、ベイドル教のナンバー2といったところだ」
と付け加える。
「連中の言いなりになるのはもちろん癪だ……が、母を見捨てることなどできん。
 ……こう言うと、お前らはどうせ、俺が殺した人間達の命も、母のそれと等価値だ──とか何とか説教を垂れてくるんだろうな」
「自分でわかっていながらあんなことをするなんて、救いなしですわね」
 冷たい目で見つめる女司祭に、黒覆面はうすら笑いを浮かべてみせた。
「お前らのように、一つの価値観に凝り固まった『聖職者』風情にはわからんだろうさ。
 俺にとっては、唯一の肉親である母が全てだ。母の命が助かるなら、何を捨てても惜しくはない。そう……俺の人生でもな」
 何か言い返してやろうと身構えていたリーハだったが、あっさり放たれた最後の一言にはさすがに鼻白んでしまった。
 黙り込んだ二人の間を取りなすわけでもないだろうが、ラエンが次の質問を投げかける。
「それで、お前達の目的は何だ?」
「封印されたドラゴンの復活だ。だが、何のために復活させるのかは知らん」
「本当に知らないんだろうな」
「ここまで話したんだ、今更一つ二つ隠し立てしたところで、どうにもならんさ。
 どのみち俺は組織に帰れない。……母さんの命も諦めざるを得ないだろうな」
 意識してか否か、黒覆面はラエン達の前で初めて母親のことを『母さん』と呼んだ。張りつめていた何かが緩みだしているのかもしれない。
 フッと寂しげにため息をついたが、その顔には複雑な笑みが浮かんでいた。
「だが、あるいは俺は、こうなることを望んでいたのかもしれん。母さんという存在に縛られ、己の意志で行動する権利を奪われた状態からの脱却を……」
「ゴチャゴチャと能書きを垂れろ、と要求した覚えはない」
「……何だと……」
 和みかけていた雰囲気が、セダルの一言によっていともあっさりと打ち砕かれる。上目遣いにセダルを見る黒覆面の目つきは、再び鋭さを増した。
「セダル、お前、もう少し人付き合いってもんを勉強した方がいいかも知れんぞ……」
 プイと明後日の方向を見ているセダルを顰めっ面で眺め、ラエンは嘆息する。
「別に俺は、こいつと馴れ合いに来た訳じゃないからな。
 さて……もう一つ聞かせてもらおう。フィップは今、どこにいる?」
 セダル達がここへ来た当初の目的である『フィップ捜し』の情報を、彼は黒覆面に求めた。その言葉で思い出したように、ラエンが手を叩く。
「そうだ。そういえば、お前と一緒にいるのを見かけた。あの後、フィップをどうしやがったんだ?!」
「グラスランナーなら……麻薬によって、ベイドル教が手駒にしてしまった……」
「なんだとっ?!」
 それまで黙ってやり取りを聞いていたローゼンが、素っ頓狂な声を上げて黒覆面に迫った。
「おい、お前っ! それはどういう意味だ? フィップはどうなったんだっ?!」
「今言った通りだ……」
 苦々しげに、黒覆面は呟く。
「オランで麻薬中毒患者が急激に現れたはずだ。あの連中は、ベイドル教団が作り出した麻薬の実験台だったんだ」
「それも、お前がやったのか……」
「部分的肯定、だな。あの中の幾人かは、確かにこの俺が手にかけた。
 常人に対して使えば、あの麻薬は単に廃人を生み出すだけの代物だ。並の人間では、体が持たんのだ。しかし、肉体的に優れている者、あの麻薬の毒性に打ち勝つことのできる人間であれば……」
 ここで黒覆面は唾を飲み込み、ペースを落として続きを語り出した。
「……超人を創造することができる……。限界を超えた人間を創り出すことができるんだ……。
 しかも、精神の方はほぼ破壊され、いわゆる操り人形にされてしまう……」
「ちょっと待て! 精神が破壊されるってのは、どういうことだ!!」
 睨み付けるローゼンの視線を受け流し、黒覆面は少し考え込んでからこう説明した。
「破壊と言ってしまうと、語弊があるな。
 活性化された肉体に対応しきれず、精神の方は半分眠りに入った状態になる……といえばわかるか?
 肉体が元に戻れば、自ずと精神活動も再開される。ただ、麻薬を断ち切るときの苦痛に耐えうるかどうかが問題ではあるが……」
「……そうか……」
 ファリス神殿で見た中毒患者の苦悶の表情がローゼンの脳裏を過ぎる。
 よりによってフィップが中毒になってしまうなんて……。
「……そのグラスランナーだが……」
 黒覆面の話はさらに続く。
「テザムの命令を受けて、今朝方、クレイン・ネットワークへ乗り込んだはずだ。あの腕輪を奪うためにな……」
 その場にいた一同が一斉に顔を上げ、お互いを見回した。どの顔にも驚きが色濃く浮き出ている。
「お前達……」
 そんな彼らの中に、黒覆面が最後の波紋を叩き込んだ。
 彼は、毅然とした口調で言った。
「一時でいい、この俺に手を貸してくれ。テザムを倒すために」


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