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歴史の陰に消えゆく者・6

 壁に掲げられた松明が照らす土のトンネル。
 その闇と光が溶け合う空間を疾走する五人の男女は、まもなく目的地に到達しようとしている。
「雑魚はどけぇぇっ!!」
 ラエンが大剣を一振りする。それでまた、道を塞いでいた二人の信者が吹っ飛ばされた。一行の後方には、気を失ったベイドル教の教徒達が累々と横たわっている。まさに「通った後には何も残さず」状態である。
「来たか」
 闖入者を殊の外冷静な声で迎えたのは、ベイドル教団ナンバー2と称されるテザムその人であった。
 部屋は、ラエンが昨日訪れた時とほぼ同じ構成である。中央に竜の彫像が置かれ、それを囲むように色とりどりの布を巻き付けられた棒が何本も立てられていた。ただ違うのは、彫像の横に立派な身なりをした、それでいて生気を感じさせない男が佇んでいること。それと、規則正しく配された棒のさらに外周に並ぶ二十人弱の教徒がいること。この二点であった。
 いや、もう一点ある。テザムの後方で、憎々しげな視線を放つ男──一行はその男に見覚えがあった。
「クライドー?!」
「おや、覚えていてくれましたか……光栄ですねぇ」
 嫌みったらしい物言いで男が応じる。ティグ・フィー・クレインの甥にして、仇敵フォル・クレインの息子。口調はティグやその息子セインによく似ているが、性格は似ても似つかない。
「あの時は、よくもやってくれたな……」
 珍しく感情を露わにして、セインが睨み付けた。かつて彼はクライドーにその命を奪われたことがある。その一点だけでも許せない相手だった。
「そんなに興奮すると体によろしくありませんよ……くくくく……」
「ふん……」
 煮えくり返る思いを胸の奥に終って、セインは従兄クライドーの言葉を鄭重に無視した。
「クライドー、しばらく控えておれ」
「御意……」
 畏まって一礼すると、クライドーは二歩ほど後ろに下がった。
 テザムは周りに並んだ教徒を見渡してこう言い渡した。
「さて……。お前達、神殿より出ておけ。この連中に話がある」
「は……ですが……」
 この命令にはさすがに教徒達も困惑し、互いに顔を見合わせる。
「この場はわしだけで十分じゃ。それだけではこの場を離れる出る理由にならんか?」
「いえ、テザム様のお力に疑いなどは抱いておりません……ですが、猊下が……」
「黙らんかっ!!」
 ここで初めてテザムが教徒を一喝した。脅えたように身を竦める教徒達。
「わしの下した命はすなわち猊下の命、ひいては偉大なるベイドルの命!! それがまだわからぬと申すかっ!!」
「め、滅相もありません! 申し訳ありませんでしたっ!」
「わかればよい……」
 急に柔和な表情になる。
「お前たちは、他に誰も近づかぬよう外で見張りをしておけ。よいな」
「はっ……了解しました」
 納得いかぬ表情を垣間見せながらも、教徒達は指示に従った。さすがに宗教団体だけあって下への命令系統は徹底している。
 最後の一人が出際に戸を閉めたのを確認してから、いくつかのランタンが放つ光の中でテザムは重々しく口を開いた。
「クレインの手の者よ。とうとうここまで来たか……」
「観念しな。てめぇらの企みは、今日この場で俺の手によって打ち砕かれるんだ」
「せめて『俺たち』にしてくれないか……?」
 やる気満々でテザムに指を突き出したラエンの出鼻を、遠慮がちに挫くローゼン。
「……お前達。何を欲する?」
「何?」
「この一件から手を引くための手切れ金だ」
 至極当然といった様子で、テザム。
「クレインから幾ら貰っておるのかは知らぬが、命を懸けるほどの価値はあるまい? 大人しく我らの軍門に下る方が得策なのは明らか。
 さあ、何を欲する?」
「おとなしく貰っておいた方が身のためですよ。ティグおじさんなど、肩入れするだけ無駄というものです」
 クライドーが口添えした。
「あなた方から貰うものなど、何もありません!」
 凛とした女性の声が、密閉された湖直下の神殿に響きわたる。怒りに燃えた瞳で、彼女はキッと睨み付けた。
「罪もない多くの人を廃人に変えただけでも許されないことなのに、この上更に罪を重ねようなんて……万死に値しますっ!!」
「おやおや……最近のマーファ神官殿は、随分と過激なものですねぇ……」
 くっくっと含み笑いを漏らす。
「他の者も同じ考えか?」
「当然だな」
 と、ここはさすがに自己を主張しないわけにはいかないローゼンが一歩進み出た。
「何をしでかすつもりかは知らないが、人としての道を踏み外しているお前達を見逃すことなどできない。それに……お前達は、フィップを変えた」
 静かな口調の裏に、激怒の情が見え隠れしている。
「愚かな奴らだな……」
 と、こちらは呆れ果てた様子でテザム。
「そういうことならわしも容赦はせん。
 この『封竜の赤水晶』をお前達に渡すわけにはいかんのだ。ここにおられるベイドル猊下……いや、ベイドルの『力』を完全覚醒させるためにな!」
「何だとっ?!」
 明らかにされたベイドル教団の目的──それが最終目的かどうかはまた別の問題である──に、動揺が走る。一同の視線は、彫像の側に立つ壮年の男に釘付けとなった。
「ドラゴンの復活が目的じゃなかったのか……」
「ドラゴン……だと? ふふん、クレインはそう予想していたのか」
「ちっ……」
 思わず舌打ちするラエン。それが主ティグ・フィー・クレインに向けられていたかどうかはわからない。
「ともかく、そちらに折れる意志のないことがわかった以上、生かしておく必要もないわけだ。貴様らの命は、まもなく復活されるベイドルに──」
 その時だった。天井を透過し、神殿に揺らめく光が降り注ぐ。
「……月光……?」
 光がそれとわかるまで、裕に30秒を有した。してみるとこの神殿の天井は光透過性のある何かでできており、揺らぎは月光が湖面を通過する際に生じたものと思われる。
「ば……馬鹿なっ!! 今がその時だと言うのかっ?!!」
 その光を、そして手元の赤水晶を見て、テザムが絶叫した。
 彼の手の内にある赤水晶は、月光を受けて燃えるような赤に染まっている。それだけではない。赤水晶それ自体が一つの光源と化していた。
「ふ……ふははははっ!! これはいい! 明日を待たずして、ベイドルが復活するのだっ!!」
 狂気にも似た哄笑に、ラエン達もさすがに不穏なものを感じ取った。
「くそっ! 要は、あの赤水晶さえ奪えばいいんだろうがっ!」
 言うが早いが、一人テザムに突き進む。
 ラエンに行動にはテザムもすぐに気付き、両足を広げて迎撃の姿勢をとった。だがその手には、ダガー一つ握られていない。
 奴が武器を手にする前に、ケリをつけるっ!
 戦士の一撃がテザムへ届く刹那。
 その巨大な肉体は、瞬時に紅蓮の炎へ包まれた。
 後ろにいたクライドーが魔法を放ったわけではない。炎は間違いなくテザムの『口』から吹き出していた。
「ぐぅっ!!」
 咄嗟に地面へ倒れ込み、炎から逃れようと転がり回るラエン。
「馬鹿な……竜語魔法だとっ?!」
 セダルは自分の目を疑った。彼の知識が正しければ──あくまで文献から得た知識だが──今テザムが行使した呪文は、竜語魔法が一つ<ファイアブレス>に間違いない。
 しかし、竜語魔法は伝説に近い魔法体系である。幾多の冒険を重ねてきたセダルですら、目にするのは生まれて初めてなのだ。いや、目にできたこと自体驚異だった。
「ようやくベイドルが復活するのだ……下らぬ邪魔をするでない」
 竜司祭テザムは、幼子を諭すように言ってから手の中の赤水晶を彫像の目の部分に填め込んだ。
「さあ……時は来た! 目覚めよベイドルっ!!」
 両手を高々と振りかざしたテザムの声に応えるかのように、天から更なる月の光が振り注ぐ。それに共鳴して、竜の目が輝きを増し、そして──。

「まずいですよ、まずいですよ、まずいですよ……」
 幾らぼやいたところでどうなるわけでもないが、それでもぼやかずにはいられないティグである。
「『神殿』、『赤水晶』、そして今宵の『月光』。これが既にして揃ってしまっている以上、私に事をどうこうする力はない──」
 ただの月光ではない。ベイドル教団が待ち望んでいたのは──そしてティグが畏れていたのは──完全なる満月が放つ月光だった。今日の我々風に言えば「月齢15.0」の満月である。この時月から発せられる最大のエネルギーが、『封竜の赤水晶』発動の鍵だったのだ。
 ワイバーンのエキュが不意に鳴き声を上げた。つられてふと顔を上げたティグの目に、一番見えたくないものが映る。
 月からノミオル湖の一点に、一筋の帯……光の奔流が注ぎ込まれていた。
「エキュ君っ! あの光を、なんとか遮って下さいっ!!」
 頼られていることがわかったのだろう、エキュは全力で空を駆け──光の柱を全身に受け止める形で、ノミオル湖直上に静止した。元を正せばただの月光、特に害を及ぼすわけではない。
「しばらくそのままで待機していて下さい! 頼みましたよ!」
 そっとワイバーンの首を撫でてから、ティグはひと思いに飛び降りた。
「<フライト>!」
 空中での行動権を得た彼は、一路ベイドル教の神殿を目指す。

「クレインの仕業か……?」
 再び仄かな光が支配するようになった神殿で、テザムが鬱陶しそうに天井を見上げる。
「だが、少し遅かったな。復活に必要なエネルギーは十分確保した!」
 会心の笑みを浮かべる竜司祭。
 それとは対照的に、神殿の入り口付近に陣取っているラエン一行は悔しげな思いを隠しきれない。テザムの目的を阻むことが叶わなかったのだ、それも当然のことだ。
 出会った当初の印象と違わぬ男であったなら、彼らは躊躇なくテザムを攻撃していただろう。そしてそうしていれば、多少の犠牲は出るにしろ、ほぼ間違いなくテザムを倒せていたはずなのだ。
 しかし現実としてラエン達はそうしなかった。初めて目の当たりにした竜語魔法に、皆必要以上に萎縮してしまったからだ。未知への恐怖は必要以上の警戒心を生み出す。
 猪突猛進型のラエンでさえ、<ファイアブレス>で出鼻を挫かれてから攻撃を仕掛けることに躊躇いを見せている。ましてやその光景を眼前で見せつけられた他の者にとってはなおのことだった。
「さて……ではそろそろ始めようか」
「あなた方は、ベイドル復活の立会人となれるわけですね。光栄なことですよ」
 竜司祭がベイドル教団の象徴とも言うべき竜の像へ手を当てた。
 カッ!
 間を置かずに、神殿は赤い閃光に包まれた。赤水晶から迸った『光』はしばらく行く先を探すかのように空中で揺らいでいたが、目指す対象を見出したのかある方向へ向かった。光のこと、動けば一瞬で到達してしまう。
 ベイドル教団が猊下として崇めていた『ベイドル』の全身が深紅に染まった。蓄積されたエネルギーが、赤水晶自体の持つそれと相俟ってベイドルと同化したのだ。
「くっ!」
 それまで黙って見ていたセダルとセイン・クレインがこの時動いた。
「<ヴァルキリー・ジャベリン>っ!」
「<ライトニング>っ!」
 光の槍と雷光とが、凄まじい勢いで赤きベイドルに炸裂した。並の人間なら跡形もなく消し飛ぶ程の威力である。
 しかし──
「そ、そんな……」
 セインの絶望の声が、皆の思いを代弁した。
 咄嗟にマントで身を庇っていたテザムも視界を遮る覆いを外し、状況を確認する。
「はは……うはは……うははははっ!! そうだ! この圧倒的なまでの力! これこそわしが長年求めていたものだったのだっ!!」
 濛々と立ちこめる煙の中で、ベイドルは立っていた。まるで今何も起きなかったかのように、至極平然と、立っていた。
「これは……予想以上の力ですね……」
 ラエン達以上には状況を把握しているはずのクライドーですら、驚きを隠せない。
「ははは……さあベイドルよ、最初の命令だ。この者達を殺せ! 殺してしまえっ!」
「き、貴様……どういうことだ?! ベイドルは、お前の主ではなかったのか?!」
「主? このベイドルが?」
 さもおかしそうに、額に手をやる竜司祭。
「『ベイドル』に意志などありはせんよ。あるのは形式的な『精神』……。
 アーザンに『ベイドル』の精神が宿ったのは、まったく奇跡的なことだった。いや……奇跡というなら、ベイドルの『意志』が失われていたことからして十分そうだったな」
 テザムの思考が遙か昔、遺跡発掘当時へと遡っていく。

「やったぞー!!」
 握りしめた逞しい拳に、仲間達の手が次々と添えられた。十年以上という気の遠くなるような月日を経て、彼らはついに古代遺跡の発掘に成功したのだった。
 何度となく途中で投げ出しかけては互いに励まし合い、掘り続けた彼らに与えられた報酬の何と大きいことか。何百年という時を経て今出現した古代遺跡を前にして、興奮は最高潮に達していた。
「早速中に入ってみましょうよ!」
 発掘者の中では飛び抜けて若い男が、リーダーと思しき男を促した。だが、返ってきた答えはそこにいる誰もの予想を裏切るものだった。
「いや。今日はここまでにしよう」
「おじさん?!」
「私だって長い間この遺跡を求めてきたんだ、調査したい気持ちは誰よりも強い。
 しかし今は皆疲れ切っている。今日の所はこれで切り上げて、明日から本格的に調べようじゃないか」
 洞窟の中では正確な時間が掴めないが、体の訴えを参考にすれば疾うに太陽は沈んでいる頃合いである。彼の言にはそういう根拠があった。
「でも……」
「バーシャ。遺跡は逃げたりしないよ」
 優しげに微笑んで、男は九年前から仲間に加わった少年の頭を撫でる。少年の好奇心を抑えるのに、それ以上は必要なかった。
「わかりました、アーザンおじさん」
 純粋な瞳で、十七歳になったバーシャが笑顔を返した。
「皆もそれでいいか?」
「構わねぇよ。第一、ここで反対なんかしようもんならバーシャに何されるかわかったもんじゃねえや」
「そりゃそうだ。アーザンは慕われているからなあ」
 周りにいた仲間達が腹を抱えて笑い出した。つられてアーザンとバーシャも大笑いする。それがまたさらなる笑い声を生んでいった。
「よし、そうと決まったら今日はもうキャンプに引き上げよう。祝い酒だ!」
 遺跡から一人、また一人と離れていく。
「お〜いテザム、早く来いよ」
 遺跡の方を向いたままの男を見咎めて、仲間の一人が声をかけた。
「ああ……今行く」
 去り際に、テザムはもう一度遺跡の方を振り返った。
 光源は先頭のアーザンとバーシャが持っていたため、仲間達にその表情を知られることはなかった。だがもし見られていれば、彼は間違いなく尋問の対象となっていただろう。
 探求者のそれではない。その時のテザムは、いわば野心を剥き出しにした男の顔をしていた。

 疲れに酒も手伝って皆が寝静まった夜。
 興奮から寝付けずにいたアーザンは、一人そっと起き出した。
 今一度、あの遺跡を見たい。一目見れば興奮も少しは冷めるだろう……。
 洞窟を出た時は完全な闇夜だったのに、いつの間にか満月が辺りを照らしている。
 月の光を背に受けて、アーザンはランタンを手に洞窟へ入っていった。この一番奥に遺跡はある。
 遺跡へ歩を進めるアーザンは、やがて奇妙なことに気が付いた。洞窟の奥の方から光が漏れているようなのだ。彼らが愛用しているランタンのそれではない。それは、そう──ほんの今し方に見ていた、月光──。
 アーザンは慌てて頭を振った。
 そんなこと、あるわけないではないか。遺跡はノミオル湖の直下に位置するはずなのだ。月の光が届くわけがない……。
「誰かいるのか?」
 遺跡の入り口に立った彼は、小声で呼びかけてみた。光が人為的なものであることは十分に考えられる。
「そ、その声はアーザンか?」
 狼狽えるような声がして、遺跡から男が顔を見せた。よく知ったその姿に、アーザンはひとまず安堵した。
「テザムか……」
「い、遺跡のことがどうしても気になって、つい……」
「気にするな。私だって同じ穴のむじなだ。まったく、言い出した当人がこれでは他に示しがつかんよな……」
 頭を掻いてから、アーザンは光のことを尋ねてみた。
「中に入ればわかる」
 言われて中に入った彼は、天井を見上げてあんぐりと口を開けた。天井全体が、空に輝く月の光を透過して遺跡の中に招き入れている。最初に来た時は外が闇だったから、この構造がわからなかったのだ。
 アーザンは身震いした。未知のものに接触しているという感動が全身を駆け抜けているのが実感できる。
「素晴らしい……」
 それだけしか、言葉にできなかった。
「素晴らしい? こんなもの、この神殿の価値の極々一端でしかない」
「神殿? それはどういう……ん、それは何だ?」
 訝しげな視線を向けたアーザンは、テザムが小脇に抱えた何かに目を留めた。
「こっちへ来い……教えてやる」
 誘われるままに神殿の中枢へ進んだアーザンを、不意にテザムが後ろへ回り込んで羽交い締めにした。
「テザムっ……何のつもりだ?!」
 叫んで引き剥がそうと試みたチャ・ザ神官だったが、首筋に鋭く伸びた鉤爪をあてられては沈黙せざるをえない。アーザンは知る由もなかったが、この鉤爪もまた<シャープクロー>という竜語魔法の一つである。
「この神殿は遙か昔、竜司祭ベイドルによって興されたベイドル教団のものだ」
「竜司祭……?! わ、私たちはそんなものを世に出すために十余年の歳月を費やしてきたというのかっ……」
 震える声で、アーザン。
「一括りにされては困るな。俺は最初からここを探し出すことが目的だったんだ。『遺跡』の情報を提供したのが誰か、覚えているか?」
「あれは確かお前が……ということはお前、最初から私たちを利用して……?!」
「そうとも。さすがに一人で発掘作業というのは骨が折れるからな。それでも十年もかかってしまった。長かった……」
 苦難の十年間を振り返ってから、テザムはアーザンを拘束する力を更に強めた。
「だが、それも今夜限りで終わる!
 ベイドルの魂よ、ここにいるのだろう?! お前にこの神官の肉体を提供する! さあ! 降臨しろ!!」
 叫ぶが早いが、二人の頭上に光の球が忽然と現れた。
「おお……!」
「くっ! テザム、離せっ!!」
 渾身の力で竜司祭の束縛から逃れる。首筋に赤い線が走ったが、今はそんなことを気に強いている場合ではない。とにかくこの悪夢のような状況から逃れなければならないのだ。
 テザムに背を向け、一目散に逃げ出すアーザン。
 そんな彼の背に、光球が勢いよく直撃する。テザムの視界には目の前で光が炸裂したように映った。あまりの眩しさに、たまらず両手で目を覆う。
 アーザンの体は宙に投げ出され、石畳の床に二、三度激しく打ち付けられてから止まった。
 テザムが恐る恐る目を開ける。既に光球は何処かへ消え去っていた。
「……アーザン?」
 やや躊躇いがちに、彼は先ほどまで仲間だった男に声をかけた。だがその身はピクリとも動かない。
「…………アーザン」
 側へ近寄って体を揺すり、テザムは今一度男の名を呼んでみた。
「う……」
 ゆっくりと身を起こした男の口から漏れた声は、彼の知る男のそれではなかった。
「我が名はベイドル。我、世界の頂点に立たんと欲す……」

 だが、あれはいわばベイドルの残留思念とも言うべき代物だった──。
 かつての仲間アーザンの姿をした『それ』を見て苦笑いしながら、テザムは更に記憶を辿る。
 仲間の大半を掃討した後に調べた結果、彼は『ベイドルの精神は既に失われている。アーザンに宿っているのは意志を持たない、いわばゴーレムのようなもの』という推論に到達した。これはベイドルの持つ知識を求めていた彼にとっては甚だ残念なことだったが、神殿に残された文献が彼に別の道を示した。
 ベイドルは死に際し、自身の力を竜の彫像に封じ込めたというのがそれだった。あくまで『力』という点がミソである。精神までここに遺されていればテザムはベイドルの下という地位に甘んじるしかないが、力だけであればベイドルはそれこそ力あるゴーレムと変わりない。
 斯くしてテザムは竜の彫像探しに邁進すべく『ベイドル教団』を再生させ、「偉大なるベイドルが聖戦を起こすための力を取り戻すため」という表向きの目標の元に教徒達を動かした。
 「聖戦の後は自分たちが世界の指導者になる」という常軌を逸した考えも、テザムの周到な『教育』で教徒に刷り込まれた。世界を混乱に陥れるための諸処の方策も、「来るべき聖戦」のために教徒が平気で実行していく。その一つが麻薬事件だったわけだ。
「さあベイドル、お前の力を見せてみろ! まずはその男を殺せ!」
 ラエンを指さし、テザムが言い放った。
「えぇい、なんで俺なんだ?!」
「とりあえず目に付いたからだ」
 目に付いただけで殺される身にもなってみやがれっ! と内心では思ったが、場の雰囲気から口にするのはさすがに憚られた。代わりに黙って剣を構える。
「ふははは、ベイドルと真っ向から勝負するつもりか? これは面白い。ベイドル、お前の力を見せてやれ!」
『その必要は……ない』
 セインが「えっ?!」声を漏らした。ベイドルの口から出た言葉が下位古代語──魔法王国カストゥール時代に日常語として使われていた。現在ではソーサラーやセージといった一部の人間しか学んでいない──だったこともあるが、それ以上に言葉の意味する内容が衝撃的だったからである。
 横に立っていたテザムは理解できない言語に面食らって呆然としている。
「な、何と言ったのだ? いや、そんなことはどうでもいい。早く奴と戦え!」
『その必要はないと言っている……』
 ほぼ同時だった。
 ベイドルが素っ気なくそう言ったのと、テザムの首が跳ね飛んだのとは。
 気が付けば、ベイドルの都合十本の指には人間のそれとはかなりかけ離れた鍵爪が生えていた。
「な……な…………なっ?!」
 あまりのことに、誰も咄嗟に声が出ない。ベイドルの後ろに陣取ったクライドーとて、それは同じ事だった。仲間であったテザムが一瞬で殺されてしまったのだ、叶うならばさっさと逃げ出したいところだろう。
 カッと目を見開いた首が足下に転がってきて卒倒しかけたリーハを、セダルとローゼンがほぼ同時に支え、ムッと顔を見合わせる。
「いや〜、すっかり遅くなりまして」
 緊迫した空気とはあまりにも不釣り合いな声が、ラエン一行の背後からかけられた。
「そ、その声は……」
 地獄に仏を見出したような顔で、皆が振り返る。上司が、父が、あるいは只の親切なおじさんがそこに立っていた。横には先ほど別れた黒覆面の姿もある。
「はっはっはっ、やっぱり私がいないと始まりませんよ。ねっ!」
 その言葉で、期待一色だった表情にフッと一抹の不安が過ぎっていく。
 そんなことはまるで気にも留めず、彼は皆の見守る中を進んでベイドルと対峙した。
『とうとう復活しちゃったんですねぇ……困ったことをしてくれたもんです』
『そこの男のことか? 実によく働いてくれた。最後の最後まで私のことを「人形」だと思っていた、大馬鹿者だったがな……』
『まったくその通りです……。お陰で私は、あなたを抹消するという「尻拭い」をさせられる羽目になってしまいました』
『ほほう、「消す」つもりか? この私を』
 余裕たっぷりにベイドルが言う。
『セイン、記憶しておきなさい。私の言ったこと。ベイドルの言ったこと。そして、これから起こる全てのことを──』
 背中に羽織ったマントを脱ぎ捨てて、ティグ・フィー・クレインは息子セインに命じた。
『さあ、全ての精算をつけるときです。覚悟しなさい、ベイドル!』


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