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歴史の陰に消えゆく者・8

「そうか……ティグさん、とうとう逝っちまったか……」
 傷も無事癒えたヴァトルダーは、手にしたエールをぐいと呷ると荒々しくグラスをカウンターに叩き付けた。頭を支えるもう一方の手は小刻みに震えている。
「残念な話ですね……」
「ああ。こう言っちゃ何だけど……あの人はあの人なりに満足していたと思うよ。自分の死に様にさ……」
 横に腰掛けたマーファ神官シルクの言葉に、ローゼンは寂しげに微笑んだ。
「まあ偉大なファリス司祭様の仰ることだ……信じよう」
「ああ、そうしてくれ……」
 そうでも思い込まなければ、この破滅的な激情に自我が呑みこまれてしまう気がした。赤毛の戦士は頭を激しく振ると、不毛な思いを断ち切るかのように更にグラスを重ねた。
「あの方の息子さん……セインさんはどうなさっているんです?」
 ティグとそれほど深い関係になかったシルクにすれば、その死は悲しいと言っても「知っている人が亡くなった」程度のものである。むしろその悲しみは、場の空気に流されていることの方が大きい。従ってティグ個人に縛られることなく思考を働かせることができた。
「哀しみに暮れている……ってのが相場なんだろうけど、生憎ティグさんの遺していったものは大きすぎてね。そんな暇もなく、引継の処理に忙殺されているよ」
 苦笑いするローゼン。彼はワイングラスを、こちらは自分のペースを守ってゆっくり飲んでいる。今日の所は、酔いつぶれる権利をヴァトルダーに譲るつもりでいた。
「むしろ、メノちゃんの方が洒落にならないな。何しろ悲しみの捌け口がないだろう? ノミオル湖で事後処理をしていた時から予想はしていたんだが、冗談抜きでやばそうだったよ」
「確かティグさんの娘だったな。年齢的に、俺の守備範囲からはちょいとばかし外れていた記憶がある」
「お前、そんな見方しかできないのか?」
 ローゼンが乾いた笑い声を立てた。冗談でも言っていなければ、とてもやりきれない。
「クレイン・ネットワークの若き当主殿にとって、目下最大の悩みの種だよ。明日にでも、励ましに行ってやらないとな」
「ふっ、ここは俺が大人流の励ましってやつをかけてやろう。一発で絶望感から解放されること、請け合いだ」
「よしてくれ……ティグさんが化けて出る……」
 確かにあのティグ・フィー・クレインなら、魂まで消滅していたとしても出てきかねない。彼の娘に対する溺愛振りは仲間内でも評判だった。その愛情たるや、比較するのも失礼だがヴァトルダーのソローに対するそれの比ではない。
「そう言えば、フィップはどんな具合だ? マーファ神殿に収容されたって話は聞いたんだが」
 仲間のことにはさすがに目がいったらしく、ヴァトルダーが尋ねた。
「心配するな。あいつがそう簡単に死ぬかよ」
 失われていた自意識は、麻薬から解放されて取り戻されたが、中毒症状から来る激痛もおまけとしてついてきた。ただ、注入回数が一回ということもあり、悲劇的結末を迎えるということはなさそうである。周りにいる人間としては、ただ中毒症状から脱するのを待つのみである。
「今日の飲み代は俺が持ってやるよ。好きなだけ飲んでいいぞ」
「ほ、ほんとか? お前が奢るなんて、やけに気前がいいじゃないか」
 疑わしげな目を向けながらも、その手には既にメニュー表が握られている。
「ほんとだって。何しろ今回の麻薬事件を解決したことで、神殿と警備隊から結構な報酬をもらえたからな。山分けにしてもそれなりの額になったよ」
「……わ、忘れてた……完璧に……」
 読者諸氏もお忘れかもしれないが、彼らの当初の目的はあくまで「麻薬事件解決」にあった。ベイドル教団との抗争で大半の者の脳裏から消え去ってはいたが……。
「お、俺にも分け前よこせ!」
「よこせ……って、お前、何もしてないじゃないか」
「うっ……」
 何も言えない。言い返せない。
「く、くそぉ……こうなったら、浴びるほど飲んで少しでも『回収』してやる! 親父、こっからここまで全部だ!」
「ぜ、全部かね?!」
「くぉらヴァトルダー、無茶苦茶な注文するなっ!」
「へん、好きなだけ飲んでいいって言ったのはローゼン、お前じゃねえか。こうなったら徹底的に飲み食いしてやる〜!!」
 頭上で言い争う二人の間に挟まって、シルクは周りの視線に肩身の狭い思いをしながらその日二杯目のカクテルを空けた。

 二ヶ月後、ティグの死後初めての幹部会議がオランのクレイン・ネットワーク本部で開かれていた。
「……とまあ、そういうわけで……」
 各幹部に配った資料を完全に無視して、ネットワーク総裁セイン・クレインの話は佳境に入っている。
「私の力で現行のネットワークを維持するのは不可能と判断し、ここにクレイン・ネットワークの解体を宣言します」
 小さくはないどよめきが沸き起こった。平然としているのは、セインの両脇を固めるリーハ、セダルの両名ぐらいのものである。
「で、ですが総裁。いきなり解体と言われましても、我々の方にはその心積もりが……」
「今更心積もりもへったくれもないでしょう、ラバン支部長」
 頭の禿げ上がった初老の男に、人生経験は半分にも満たないセインがにこやかに話す。
「採算的にも、約一カ所の支部を覗けば独立で採算が取れているでしょう? 解体したって問題ありませんよ」
「しかし……」
「それに、あなたは平素から言ってたじゃありませんか。『いつかはトップに立ってやる』ってね」
 ラバン支部長の表情が一瞬で凍り付く。
「そ、それはその……いえ、あの……」
「な〜に動揺しているんですか。別に責めたりはしませんよ」
 かつて父ティグがそうであったように、余裕たっぷりに微笑むセイン。
「ここにお集まりいただいた支部長の方々は、いずれも組織の頂点に立っておかしくない素質を持っているはずです。皆さんもそれぐらいの自負はされているでしょう?
 何も古い体制をいつまでも後生大事に続ける必要なんかありません。この際、ひと思いに……ね」
 セインの意見に反対する者はいなかった。予想だにしていなかったとはいえ、心の底では彼ら支部長もこの時が来ることを待ち望んでいたのだから。
「反対意見はないようですね。
 では……本日を以てクレイン・ネットワークは解散します!
 今後は、これまでの体制を踏襲するもよし、新たな境地を開くもよし。その辺は支部長である皆さんの力量次第です。ま、せいぜい潰れて路頭に迷わない程度に頑張って下さい」
 沸き起こる爆笑。
「では、解散! 皆さん、今日まで本当にお疲れ様でした!」

「よう。どうだった?」
 夕暮れの橋で佇む男女の姿があった。黒髪を短く刈った背の高い男と、栗色の髪をした美しい女性である。旧タイトル、『美女と野獣』──。
「無事に終わったわ。これで各支部、バラバラね」
「一部を除いて、だろ?」
 男がにやりと笑う。
「ええ。ティグ様の『遺言』だもの。ちゃんと最後まで面倒見ないとね」
「面倒見の良いことだ。セダルもネットワークは離れんのだろう?」
 コクッと頷く女。クレイン・ネットワークは、ベルダイン支部及びカゾフ支部のみを残して再出発するわけだ。
「それにしても、随分あっさりとロマール支部長の座を捨てたものね」
「ふん、どうせ俺はいてもいなくても同じだったからな。このまま解体されちまったら、一年と立たないうちに潰れちまうだろ?」
「それもそうね……あなた、私と初めて会った時から商才だけはホントになかったわ」
 流れる川に視線を落とし、昔を懐かしんで笑みをもらす。
「まあな……だが、俺自身は随分変わったんだぜ。お前と会ってから……」
 男は彼女の横に並び、同じく川を眺める。
「確かに、見た目だけは随分変わったわね。この二ヶ月で……」
「まあ、そろそろ真面目にやらんとお前に愛想を尽かされちまうからな」
「真面目になろうとした結果が、無職?」
「うっ……痛いところを突くなあ」
 顎を撫でる男。以前生やしていた髭は綺麗に剃ってしまっている。髭と髪型が変わっただけで、随分見た目もさっぱりした。少なくとも彼女の気を引くには十分過ぎるきっかけとなった。
「さて、そろそろ行くか」
「そうね。……ねえ、今から『沈黙の巨人亭』に行ってみない?」
 女の提案に、彼は露骨に嫌そうな顔をした。
「ヴァトルダー達に会おうってのか? 何言われるかわからんぞ、特に俺は」
「大丈夫よ。何か言われる以前に、まずあなただとわからないから。さ、行きましょ」
 彼女は男の腕を取ると、引きずるように歩き出した。男の方も付き合わざるを得ない。何しろ、今や彼は彼女の『ヒモ』なのだから……。

「リーハ……お前があいつに惹かれた事について、とやかく言うつもりはない。だがな──」
 虚空を仰ぎ見て、セダルは独白した。
「だが、なんで俺がこの娘の面倒を見なきゃならないんだっ?!」
 頭を抱え、目の前でスースーと寝息を立てる少女を見つめる。
「俺は……ヴァトルダーみたいな趣味はないんだぞ……ああ、情けない……」
 本当に情けなさそうな顔で、彼は自室に上がり込んだ乱入者に毛布をかけてやった。
「セイン……お前、妹の行動に不干渉過ぎるぞ……」
 部屋を空けるに空けられず、独り言を連発するセダル・アリアン。彼の精神が破綻する日も、近いかも知れない。

 ──かくして、物語はひとまずの終焉を迎える──。


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