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歴史の陰に消えゆく者・2

 窓から差し込む月の光は、何とも言えぬもの哀しさを醸し出す。
 ワイングラスを手に、ネットワークの当主は物憂げな表情を浮かべていた。
「もう三日もすれば……満月ですか……」
 やや雲のかかった月を眺め、誰に言うでもなくそう呟く。
 己の許容範囲内においてできることは、すでに施した。
 さまざまな要素を踏まえ、彼なりの思惑を加味した結果導き出された推論。かなりの信憑性があるものと自負している。
 なれど、推論とは所詮不確定多数な未来の、ほんの一つの予見にしか過ぎないのだ。彼の過去47年間の人生はそう語る。
 当主は深く溜息をついた。窓に残った吐息の跡が、この空間と外界との境界を露にする。
 いずれにせよ、あと三日。この三日間を乗り切れば、さらに一ヶ月の猶予期間を手にすることができる。
 胸の内に何かを秘めた知謀の士は右袖に手をやり、そっとたくし上げた。彼の比較的細い手首に填められた腕輪がその姿を現す。
 雲が風に流され、いっそう光量を増した月光が夜の街を照らし出した。その光を浴び、腕輪の赤い宝石が妖しく輝いた。

 二つの影が街路を疾走している。一人は頭から爪先まで黒ずくめの男、いま一人は小柄な少年である。さらにその二人を上空から追走する男の姿もある。
「……しつこい奴等だ」
 先頭を駆ける黒ずくめの男がそう呟いた。
 まったく、この自分に併走できる者があの中にいたとは! しかも二人もだ!
 腕の立つパーティだ、とは聞いていた。だが……
 彼の思考が、そこで中断を余儀なくされる。
「はっ!」
 気合いとともに彼の体は宙を舞い、小柄な方の一撃をかわした。微かな音を立てて降り立つと、今度は攻守が逆転する。
 このガキ……並の動きじゃない……。
 魔法か? ……いや、違う。だが、そうでもなければこれほどの動きをする者はいるはずがないのだ。少なくとも「人間」という種族においては……。
 音高らかに響く金属音。彼のショートソードが攻撃を受けとめた音だ。
 そうか……。
 彼は理解した。その積み上げられた知識が、この小柄な者の速さを「グラスランナー」という種族の特性によるものと判断させるに至ったのだった。そう言われれば、グラスランナーという妖精は総じて小柄だと聞いたことがある。
 黒覆面の放つ第二撃、三撃を、グラスランナー……フィップは身軽にかわす。
 彼は焦った。まったく当たらないと言うのは、過去にもほとんど経験がないことだった。
 手の内を見せてやるか? いや、まだ早いな……。
「!」
 その時、不意に黒覆面の全身を鈍い痛みが突き抜けた。上空のダルスが放った<ライトニング>が彼に襲いかかったのだ。
 今のは、油断していたせいもあるが少々手痛いダメージを受けた。いつも無傷で相手を闇に葬り去る彼にしては異例のことだ。
「……このくらいにしておくか……」
 このまま勝負を続けても、負ける気はしない。しかし、血みどろになるまで戦い合うというのは彼の美学に反する。言い訳がましい気もする。だが、主義に反してまで戦うつもりはない。ただ、心残りは一人も殺れなかったことか……。
「……ベイドルの名に誓い、次は必ずお前達の息の根を止める。それまではその命、預けておこう……」
 そう告げると彼は得物を収め、標的に背を向けた。
「逃がすもんかっ!」
 黒覆面に駆け寄り、その腕を捕らえる。
 腕を掴んだ主の目を、黒き戦士はじっと見つめた。
「!」
 フィップは心を鋭利な刃物で貫かれたような気分になった。自分を見つめる相手の目が恐ろしい。氷のような瞳、という表現があるが、まさにこのことを言うのだろう。指から思わず力が抜けてしまった。
 黒覆面はその機を逃さず(といっても、もとが非力なグラスランナーだけに、力を入れていても結果は変わらなかったのだろうが)、フィップの手を振り解くと呪文を唱えた。
「<テレポート>!」
 呆気にとられるフィップとダルスを残し、黒覆面は何処かの地へ消えたのだった。
「う!」
 絶句したのは二人とも同じである。相手の力量を垣間みた一瞬だった。
「あ、あんなやつを相手にしておったのか。わしらは……」
 二人の背筋に、冷たいものが走り抜けた。

「勇壮なる戦神よ、我が願いを聞き届け給え……。我が前に横たわりし者の傷を癒し給え……」
 戦神マイリーに祈りが捧げられ、その加護によって黒覆面の前に倒れた戦士の傷が癒されていく。
「……わしの力では、この程度が限界じゃな……」
 自嘲とも取れる笑いを、猛きドワーフはこぼした。
 ほとんどの傷は癒された。
 しかし、黒覆面の最後の一撃で被った左腕の傷は、ダッシュの使える治癒魔法<キュアー・ウーンズ>の処理能力を遥かに凌駕していた。もっとも、フィップがカバーに入っていなければその傷は確実により内側、胸に部分にあったわけで、それを考えれば軽いとは言える。
 改めて傷ついた腕を見やると、すでに変色し始めていた。つまり壊死である。あまり歓迎される状態ではない。
 とにかくこのような場所ではどうすることもできない。それに、あの黒覆面の男がいつ戻るかもわからない。
 そう考えた彼は、現在地から最も近いローゼン宅を避難場所として選んだのだった。
 ところで、ドワーフはその特徴として、人間より背丈、及び四肢がが短いことが挙げられる。何を言わんとしているのかはお解りいただけるだろう。
 その体格がため、多大な苦労を強いられるはめになったことをご理解いただければ、幸いである。

 既に灯の消えたスレード邸の戸を、招かざる来訪者が叩いた。
 しばらくの間を置いて明かりが灯り、眠たげな声が応対した。
「夜分に失礼する。私、ローゼン君の知人でダッシュと申すが」
 名に聞き覚えがあったのだろう、すぐに鍵を外す音が聞こえ、中と外の隔たりが消えた。外の二人を、ランタンの明かりが照らし出す。
「ダッシュさん、どうしたんで……」
 そこでドワーフが半ば引きずるようにして背負っていた男に気づき、声を詰まらせた。
「その腕……」
「そういうことだ。済まないが、休む場所を提供してはもらえんだろうか?」
 是非もなくハーフエルフの青年は頷いた。

 応接間へ二人を通すと、青年は軽く一礼して奥へ下がった。
 部屋は<ライト>によって一定の光量を保っている。先ほど家主の兄がコモン・ルーンの指輪で灯したものだ。
 ヴァトルダーの額には脂汗が浮かんでいる。ダッシュもこの男と付き合うようになってかなりになるが、このような彼を見たのはまだ数えるほどしかない。もっとも、そうそう見るようでは自分もそのような目に遭っている可能性が多分にあるのだから有り難くないのだが。
 程なくして、寝ぼけ眼を擦りながらローゼンが姿を現した。夢が良いところであったらしく、実の兄に不満を漏らしている。
「済まんな、ローゼン」
「まったくだ……と言いたいところだが、そうもいくまい?」
 二人は顔を見合わせて苦笑した。
「レンディ、紅茶を頼む」
 弟の頼みに、兄は微笑して応えた。
 傷ついた腕を若き神官は注意深く診た。
 壊死がかなり進行している。溜息をつき、髭面の仲間に視線を移した。
「これは、わしではどうにもならぬ。とりあえず、治せるところは治したが……」
 なるほど、服の生地があちらこちらで破損している。ここに傷があったのだとということを、それらは端的に示していた。
「この傷は、やはり神殿にでも行かねば治せぬのぅ……」
 ドワーフのその一言を、ローゼンは聞き咎めた。
「ちょっと待った。お前、なぜここに来たんだ?」
「なぜって、襲われた場所に一番近かったからじゃが……」
 寝起きの神官の頬が引きつる。
「なんじゃ?」
「俺……治せる」
 二人を暗い沈黙が襲った。
 ローゼンは確かに過大評価されるのが嫌いである。しかし、過小評価というのもどうかと思う。
 彼は深呼吸して気を取り直すと、その手を患部に向けた。
「偉大なる至高神よ、願わくばこの者の腕に今一度命を……」
 神聖魔法<リジェネレーション>の行使と同時に、変色していた腕の色が、ごく遅くではあるが正常に戻り出す。再生を開始したのだ。
 腕の救い主の肩口で、軽い溜息が漏れた。いつの間に戻ったのか、紅茶の載ったトレイを片手に、異母兄が横に立っていた。
「ありがと」
 運ばれてきたカップを手に取り、紅茶を口に含んだ。
「ああ、うまい」
「まったく大したもんじゃ。お主のような輩に、なぜ至高神の加護が……まあよいか。
 ところでローゼンよ」
「あ?」
「いつ完全に回復するのだ?」
 ダッシュが素朴な疑問を口にした。
「……」
 返答の代わりに、紅茶を啜る音が返ってきた。
「何を勿体ぶっとるんじゃ?」
「……本当に知らないのか?」
「うむ、知らぬ」
 同じ神官として、なぜか情けなくなるローゼンだった。
「ざっと一週間だ」
 意外に長いことを知って、ダッシュは唖然とした。
「へぇ……結構時間がかかるものなんだね」
 トレイをテーブルに置き、紅茶をダッシュに差し出しつつレンディの方は平然と受け流す。彼はこの手の世界に無縁……とまでは行かなくとも、疎いことには違いがない。
「まだわからないのか? ほれ、いつかティグさんが命を落としたこと、あっただろう? あの時……」
 言われて記憶の糸を手繰り、ダッシュにもようやく理解できた。
 以前、ティグの復活に立ち会ったことを思い出す。あの時も確か、体が本来の機能を取り戻すまでに一週間かかっていた。それに、彼の息子であるセインの時も……。
 確かに、ヴァトルダーの左腕は「死んだ」のだ。それ故に<キュアー・ウーンズ>の効果が及ばなかったのである。そしてその腕の復活には一週間かかるという。なるほど理屈は通っている。
 そう言う意味では、黒覆面の男の目的は達成されていたのかもしれんな。ダッシュはぼんやりとそう思った。
「……さん……ダッシュさん……」
 そんな彼の耳にレンディの声が入った。
「早く飲まないと、紅茶冷めますよ……」

 ランタンの炎に照らされた部屋の中、黒覆面――覆面は既にとっているから、この言い方は不適当かもしれないが――は片膝をつき、三人の人物の前に控えていた。一人は豪華な椅子に座り、一人はその横に立って、いま一人は黒覆面の横に彼同様片膝をついて控えている。
「……しくじったと申すか? お前ほどの者が……」
 黒覆面を見下ろしている青白い男が眉を顰めた。黒覆面は黙って軽く頷く。
「猊下。オランに派遣いたしておりましたバーシャ、この度はしくじったそうにございます」
「よい」
 横に控えた男の上申に、猊下なる人物は大儀そうに頷いた。
「たかだか一度の失敗、責める気は毛頭ない。だが、次は期待してよいのだろうな?」
 バーシャと呼ばれた黒覆面は、深々と頭を下げた。
「猊下もこのように期待されておるのだ。猊下の御為、ひいてはベイドル様の御為に……」
「皆まで仰らなくともわかっております」
 黒覆面バーシャの氷の眼差しを受けて背中に冷たいものを感じながらも、この場のナンバー・ツーは不敵な笑みを漏らした。
「そうよな。お前は猊下に対し、多大なる恩義があるからのう……」
「は……」
 そうだ。この男、その命果てるまで我々に……いや、私に尽くすだろう。何しろこの男の母親は……。
「テザム」
「はい」
「ノミオル湖の方はどうなっておる?」
 テザムは黒覆面の横に控える男にチラッと目をやり、揉み手をせんばかりの卑屈な口調で答えた。
「着々と進んでおります。地底の大神殿の存在は、臣下の魔術師によって既に確認済み……。現在はかの地の破損部分の修復に取りかかっており、あと丸一日程度で終了いたします。さすれば、いつでも移動は可能にてございます」
 「猊下」は満足そうな笑みを漏らす。
「あとは神具をそろえるのみよ。のう、テザム」
「はっ! 悲願達成も目前にございますな」
 両者とも口では互いを信用している。しかし所詮は上辺だけのものだ。この二人が言うところの「悲願」が達成されたあとが見物だな……。不忠の男は俯いたままほくそ笑んだ。
「オランのクレインなる人物の元に神具のあることはわかっている。くれぐれも頼んだぞ! すべてはお前にかかっておるのだ!」
 この俺のことを捨て駒程度にしか思っていない男め、よくもまあ言うものだ……。
 内心に秘めたるものを持ちながら、黒覆面は立ち上がって一礼するとその場を後にした。

「ったく冗談じゃないぜ……」
 深夜の空を疾走する影があった。  その大きさたるや、人間の比ではない。世に言うところの「ワイバーン(飛竜)」である。名の通り、空を駆ける速さはかの有名なドラゴンさえも凌駕する。
 そして声の主は、そのワイバーンの背中にいた。
 豪気を旨とする彼には、剣において「負け」と言う言葉を知らない。
 そんな彼も寒さには弱かった。いま彼の体を包んでいるのは、着慣れたプレート・メイルではなく、羽毛のコートである。それでもなお、吹き付ける夜風の冷気は彼の肉体に容赦なく突き刺さる。露出した顔などは感覚をなくして久しい。
 彼の目指すところは、ロマールの北西に位置するノミオル湖である。
「今回のカコイン騒動には、甥のクライドーも確かに一枚噛んでいるでしょう。しかし、そのバックにはさらに大きな影が控えているはずです」
 彼の主人であるティグ・フィー・クレインは彼にこう伝えた。
「その影とは、おそらくはベイドル教徒」
「ベイドル教徒?」
「エルダー・ドラゴンが、その信仰の対象のはずです。ただ、ベイドルというのが何なのかは私にもわかりませんがね。まあ、彼らが元凶であるのは十中八九間違いないでじょうね。
 ところで、ノミオル湖を知っているでしょう? あそこには今回の騒動の鍵があるはずなんです。昔、あの辺りにベイドル教徒の総本山がありましたから」
 これだけなら、彼がこの地に赴く必要はなかった。
「彼らの狙いは、信仰の対象であるエルダー・ドラゴンの召喚だろうと思うのですが……。
 ここからは私の仮説なんですけどね、もしかしたらその上かもしれないんですよ」
「その上……って、あのエルダー・ドラゴンよりもか!?」
 エルダー・ドラゴンの強さは半端ではない。戦い方にもよるが、人間ごときが太刀打ちできる相手ではないのだ。
「ええ……。わかりますか? エルダー・ドラゴンの上をいくドラゴンが何なのか」
「さあて……」
 首を傾げる。
「ドレイク。
 聞いたことぐらいはあるでしょう。神話に出てくる、神殺しの竜ですよ」
「!!」
「さぁて、この推測、取り越し苦労となるか、そうならないか……どうでしょうね?」
 そう言うと、ティグは意味ありげな笑みをよこした……。

 ……とまあ、これがティグと彼ラエンとの間にかわされた一連の会話である。
「……何度考えても、どうにも附に落ちん。な?」
 彼の足代わりであるワイバーンのエキュの首を撫でてやりながら、話を振る。  彼(彼女?)は低い唸り声を上げた。どういう意味の意志表示かはわからないが、賛同の意ならば、それは自分がいま、こうして飛ばさせられているということが「附に落ちない」とでも言いたいのだろう。
 エキュの行動は、ラエンの着けている腕輪によって管理されているのだ。もっとも、最近ではそれを必要としないほど、双方意志が通いつつある。
「あと何時間かかるかな? なあ」
 持ってきたワインを煽りながら語りかける戦士に、ワイバーンは大きく翼を羽ばたかせることを応えした。

 翌日の昼過ぎ、ティグ邸に集った面々は各々の仕入れた情報やら襲撃にあったことを披露した。
 ローゼンの訪れたファリス神殿もリーハとシルクのラーダ神殿も、やはりこれといって新しい情報の収穫はなかった。
 ヴァトルダーたちが検事バールスから手に入れたもの……現在出回っているカコインは以前のそれより依存性が強いこと、そしてそれらはロマールからザイン、エレミアを経由してオランに運ばれていること……も、他の人間は別として、ティグにしてみればわかりきったことである。
 ただ、リーハやシルクの身を乗り出させた、黒覆面の件は別だった。
 黒覆面の能力についてである。この男、戦士としてヴァトルダーを凌駕しただけでなく、フィップたちの前で上位クラスの古代語魔法<テレポート>を使って見せたのだ。自分たちと対峙している相手の質の高さが伺われる。ここまで良質の人材が集まっているとは、ティグとしても意外だった。
「弱りましたね……」
「何が?」
 思わず漏れたティグの言葉尻を捕らえて、片腕を吊した戦士が訊ねた。
「え? あー、いえ、こっちのことです」
「そうか」
 ベイドル教徒とのことを彼らに話すべきではないし、またその必要もない。
 いままでは確かにそう思っていた。
 だが、実際に襲われ、あまつさえ片腕を失いかけていて、それでも本当に必要がないのだろうか?
 警戒心を強化させる必要性に苛まれ、彼は悩んだ。
 ここで話せば、必然的に強化されることは言うまでもない。相手が復讐に燃える一個人と、宗教がらみの団体とでは雲泥の差がある。もちろん宗教がらみの方が、理想のみを見て他には盲目的になり、猪突猛進してくるだけ始末が悪い。そういう意味では、理性のあるクライドーの方が楽と言えば楽なのだ。
 だが一方で、そうすることによりヴァトルダーたちが尻尾を巻いて遁走する可能性もまた十分に考えられる。シルクはともかくとして、ヴァトルダー……も傷ついているから別とするが、ローゼンたちに抜けられては痛い……。
 ここで彼は閃いた。
 自分が仕事の依頼としてベイドル教徒と戦ってくれるように頼めばいいのだ。何もベイドル教徒と本格的にことを構えようというのではない。ただ、三日間こちらが守りきればよいのだ。そこを越えれば、当面は安心である。
 しかしそれにしてもさすがにドレイクの名を持ち出すのはまずいだろう。相手がベイドル教徒といっても、きっとピンとこないであろうし。
 ならば、相手はメジャーなファラリス教徒で、その連中がそう……腕輪の赤い宝石を狙っている、ということにすればよい。
 ティグは、思考回路が弾き出したそれらを一同に伝え、やや動揺する彼らに報酬を掲示した。
 ネットワークの一つである料亭「栄華亭」の料理を食べ放題!
 その場に居合わせた者たちの目は……とりわけ、大食漢のダッシュのそれは……輝いた。
 光輝亭と言えば、貴族でも上級クラスしか行くことのできない値段と、それに勝るとも劣らない高級料理とで知られている。婦女子の間では憧れの的、そしてスラム街の貧民階級にとっては憎悪の対象。それが光輝亭である。
 余談だが、ヴァトルダーは以前この店で試食コースを賞味し、多額の借金を背負ったことがある。彼が一瞬頬を引きつらせたのはそのせいだ。
「それで、その問題の宝石って、どれ?」
「これです」
 興味本位で訊ねるフィップに、舌の回る雇用者は右袖をたくし上げ、腕輪に填められた宝石を指さした。
「これって高いの?」
「さあ、どうでしょう?」
 当ててご覧なさいといった感じで微笑むティグ。内心では苦笑していた。
 彼はラエンに、元凶はベイドル教徒だと言った。だが、本当はこの宝石の存在こそが元凶なのだ。皮肉なことに、この宝石が……。
 三日……。やはり長いですね。
 利き腕でないとはいえ、片腕の使えないヴァトルダー君はどうひいき目に見ても並の戦士以上の働きは期待できないですし、ラエンもあちらへ送ってしまいましたからねぇ。戦士二人を欠いて、防ぎきることができますかどうか……?
 ティグの懸念に応えてか否か。
 真昼のティグ邸に、一つの影が忍びよっていた。


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